氷
こんばんは。
もう今年も終わりですね。今年しみじみと実感したのは人間は都合の良いこと以外信じられない。それほど怖がりで狭い世界しか見ないのだ。ということです。
(ふふ、感情を満たすことで世界が良くなるとでも? 事実をゴミ箱へ投げ入れて。ふふ。)
おそらく来年には太陽が超新星爆発するだろう。
今年がこんなにも早く終わったのだから。
時は加速する。私たちは今を同じ時間の流れで生きているように見えるが、時間は一度たりとも同じ流れでなど流れてはいなかったのだ。
「氷:アンナ・カヴァン」を読んでいた。二十世紀に出た終末小説だ。
この世界が終わりを迎える。この2020年に起きた出来事は世界が終わりを迎えることとよく似ている。加速する社会、この世界の分断、蠢く暴力。私はその中で分裂するだろう。分裂症者の世界で散歩をしなければ生きられない。
正確に言えば、「この世界感が終わりを迎える」各人の世界観が世界と接続されているのだから、私の小さな世界観が終わりを迎え、この世界との接続が消え、氷に閉ざされる世界に近似していく。
私たちは絡めとられた。もう人生を続けるだけの熱はなく、ただ同じ行動を繰り返すだけの自我以外に残ってはいない。
何かが自身から生まれるとは思えない年齢を感じ、しかしその生を終わらせることもなく惨めな一日を過ごしている。
孤独と孤立の中で想像上に描かれるキャラクター達と遊んでいる。様々な創作物が私の中で浮いた感性を隠していく。私が表現しようとしたものは全て何かの継ぎ接ぎだった。私がここに生きている理由も恐らく全て何かの継ぎ接ぎである。
(スれた自我としての結月ゆかりがそこら辺を自由に歩き回る。私が書いた文章を喋らせ続けたために、わたしのなかで生じた。それらは強い吐き気と共に生まれる。)
ありあわせの環境にありあわせの自我。
私たちが適応の結果全てを身に着けたのだとすれば、その環境、その文化、その世界によりここで連ねる言葉も全てある意味決まっている。だからこそ、この社会はそれらを壊してしまおうと、変化してきた。環境や文化で生きる役割を押し付けられることなく生きられるような社会を目指して。
(ゴミ箱へ投げ入れろ! 暴力など! 腐った人間性など! 大義名分など! 糞ったれの正義などゴミ箱へ投げ入れろ! 両目を千切れ! その口は神の声以外を語るな!)
永劫回帰である。私たちは絡めとられた。
虹色に光り輝く氷が世界を埋め尽くし、人間が消え去った様に、全ての生物から熱が消え去った大地だけが残る。私は加齢により、この世界での暇を無為に消費するだけの事物となった。
昔何かを表現したかった。今何かを表現した気になっている。
私は嘘を吐くだけの機械となった。仕事は出来ない。
「どこへ行くのですか」
「どこにもいきませんよ」
小さな部屋から、大きな大海へ流れ込む意識は氷によって阻まれた。苦しみの最中に、それらは妄想の中で現実の中では何も生じていない。
そして、この世界は妄想の中で生き始めた。現実で起きていることはどこ吹く風で、ただ自我の邁進だけがこの世界に生じている。いや、元々人間はそのような生き物であるのかもしれない。
うろ覚えだが昔、虫の脳、爬虫類の脳、哺乳類の脳と分けた人がいた。それぞれの種で脳の構成が異なるから、そのように分けていた。生きる為の脳幹、小脳、大脳、大脳新皮質、私たちの自我はこれら全てを行き来して経時的な現象として現れる。それらが少なくなれば、機械的な働きに近くなる。(虫の行動が彼らの持つセンサー類によって最適化された行動だけを取り続けるように、刺激による反応を繰り返す。)
しかし、人間であっても、結局は考え方は同じである。
耳、目、鼻、皮膚で世界を感じ、それらを表現したこの社会でどのようにすれば生きられるか、生殖を行い、生き抜けるか、という適応と反復による条件付けが複雑になっているだけの話なのだ。
私たちはなんとか生きている。
生きられるだけ生きて、後は終わりを待つだけとなった。
会社に所属すること、社会に押し込められること、その中で最適化された行動を続ける遂に私は私が分からなくなった。何のための自我だろうか、何のための世界観だろうか。
考える余裕もなく、ただ行動しなければ死ぬ。この場所まで降りていくことも可能だ。落とすことは非常に簡単だ。(その先にあるのは死刑である。自殺である。人生から逃げ出すには、死ぬ以外にない。その救い以外を選べないのだ。)
この世界感は着実に終わりの音を聞く、その冷気を感じる。その歪な虹色の光が私の目を焼き、体を張り付け、その内に服もなく裸の私が凍り付いて終わりを迎える。
どんな車に乗っていようと、その中が世界の全てだとしても、その中にある小さなぬくもりだけで生きるしかない。
残念ながら私にはそうしたものはない。
一人歩きを始めたキャラクターが私にまとわりつく、にやにやとくそったれな言葉を吐き続ける。
「どうして生きているんでしょうか、この寒々とした部屋には生がほとんどないのですわ。ふふ、ふふ、ねえ、わたしが誰か知っている?」
分からない。それが私の自我であるのか、分化して表現しようとしたキャラクターであるのか、部屋の中を歩き回る意識なのか、区別がつかないのだ。
冷え切った体は氷を受け入れられない。
誰か他の人間がいれば救われるはずもない。愚かな日常を続けて、腐り果てた自我を垂れ流すだけの日々がまた明日も続く。
明日の私もきっと同じだろう。迫りつつある「氷」を恐れて、何もせずに一日を過ごすことでまた無駄だと思いながら、終わりの時までを生きるしかない。
資本主義とメディアは私たちを少しだけ掬い上げたが、今その加速が過剰に行き過ぎて私たちはパニックに陥る。何かに操られているかのように、不安が伝播し、ある流れを生み出す。
それを変えることはなく、ただ、ただ、終わりの時を待つよりほかない。
私は私をダンピングして、良くないところへ追いやることを止めなければ。
来年も、結局のところ、、、
ゴミ箱へ投げ入れろ!
弱者のための世界5
こんばんは。今日も私は何とか生存している。
弱者のための世界とは何だろうか。今の社会の中に間違いが含まれていて、それらが意図的にビジネスに繰り込まれている。だからいつまで経っても私たちは振り回され、頭を抱え、取り上げられるのは世界を良くしようという活動ではなく、より窮屈に、可能性の狭まった世界観を形成するもののような気がしてならない。
目次
ゴミ箱へ投げ入れろ!
よいかわるいか、ではなく、したいことをする。したいように世界を理解し、その中で全てが規定される。
その結果、私たちは多数の幸福すら選び取ることを止めてしまった。
社会の本当の弱者は誰なのだろうか? 本当に今はそのための世界になっているのだろうか? 余裕をなくした人々の熱を向けるべきところは結局対立なのか。
弱者が弱者のために対立を生み、あれか、これかと世界を分ける。
やらなければいけないことが、そのちょっとした「気晴らし」で間違う。
(そんなものはゴミ箱へ投げ入れろ!)
差別という問題提起の嘘が世間を騒がす。2020年はこの流れが結構続いた。大抵がポジショントークなのでそれらを声高に叫んだところで融和することはない。攻撃が攻撃を生むしかない様に、この一連の話題は全て人間の特性、「暴力性と社会性」に終始しているのである。
動物的な活動の枠から自らを逸脱させて、弱者ですら生かせるクセに、こうした領域ではまだ動物的な活動が続く。あるフレームから逸脱すればそれは間違っている。
その裏側になにもかもが資本の獲得に裏打ちされているのが非常に下衆である。正しさの仮面、建前社会なのはこの世界全体の話である。
差別先進国としないために、分断を生み、窮屈で頭の悪い世界を作らないために。
出来るはずだがそれをしないのは、それを望んでいないからだ。口では何とでもきれいな言葉を吐けるが、その裏側に塗れたクソを自覚しなければならない。しても利にならない、得にならないから、この社会を本当に良くしようとしているわけではない。
自身の居場所を守ろうとするだけで精一杯だから、そうしなければ資本が獲得できないから。だからダブルスタンダードとなってしまう。雨に歌えばを口ずさみ、暴力と強姦が振るわれる。
――どちらにせよ、他方を攻撃してしか得られないものになんの価値があろうか。
私は病んでいるが、この社会の方がもっと病んでいる。
(ゴミ箱へ投げ入れろ!)
差別は日本だけの問題ではないが、私は日本人なのでその立場から語るしかない。いじめ問題はもうかなり前から問題提起されていた。他と違うからいじめる。阻害される。これは何も人種だけに限った話じゃない。恣意的に切り取られたNIKEのコマーシャルは伝えたいことは分かるが、その裏側に垣間見える製作者の思想が嫌らしい。企業の社会的責任はこのような形で果たされるはずがない。
人種、思想、性別、様々なものを越え、手を取り合って理解できるものには、大きなもので「音楽」と「スポーツ」がある。
スポーツをする中でみんなが手を取り合って頑張れる。人種などの些細な「違い」なんて関係ない。しかし、上に挙げたものはそうではなく、あくまで「個」が主体となっている。こうした疎外の問題は「個」の問題ではないのだから、言いたいことありきの表現になっている。(とはいえ一つの企業の話であるので、扱ったネタが公正なビジネスに必要かどうかはさておき、法に反しない範囲でどんな手を使っても利益を上げれらればいいというのも分かる。企業は法を決めないし、ルールを決めない。もちろん、杓子定規に言えばね。)
「個」が強く、活躍できれば良いのですか?
または、そう出来た人でなければ、駄目だ。
理想が無ければ語れないのはどんな物事でも同じはずだ。融和的な形で差別を解消するか、緩やかな距離を保つか、これらは個人では成し得ない。それらを個人に落とし込む。周囲の人間は差別を疎外を生み続ける。
差別というものの意味が理解できているなら、あのような表現にはならない。オマケのような「US」という記号はまったく意味を成さない。大人が作るのであれば、子供たちへ向けてもっとたくさんの人へ向けたメッセージであるべきだ。
大人はともかく、子供はまだ間違いを変えられる。だからそこには「大人のくそくだらない」都合などを入れない表現も出来たはずだ。
(そんなものはゴミ箱へ投げ入れろ! そう言って労いの拍手が続く)
欧米で問題にされるような苛烈な差別を私は受けたことはないが、疎外されることの虚しさ、そういったことはよく分かる。私は変われるほど強い人間ではなかったので、ただただ耐えることだけは得意になった。自分の世界観の外側とは接続されていない。そんなところから、私は妄想を始めた。物語を考え始めた。
世界を変える。自分を変えずに。
そんなキャッチコピーを思い出した。
自分の世界観だけがこの世界なのだから、という個人主義的な冷たさがこの言葉にはある。スポーツがそうした側面を持つことは否めないが、こうした考え方があって何かが押し付けられることは良くある。もしこれら全て正しいのだとすれば、そこに「世界」は存在しないのだ。
(「世界」もゴミ箱へ投げ入れろ! 切り落とした接続子のゴミが溜まる)
そして同じように、上記に挙げたコマーシャルもそういった感じを受けた。
注意しなければならないのは、マイノリティ=弱者 ではない。「個」でどうしようも出来ないから、私たちはどうしようもないから、やはり差別はなくならないのだろう。二項対立を煽り、どこかを分断させようとする試みがある限り、それらが利益を生む限り、私たちは永久に辛いままだ。
弱者から割を食う社会。ここから脱却しなければならない。別姓が新しい価値観だと、同性を古い価値観だと軽蔑し、排除するようなことがあってはならない。
新しいものを導入する時、必ず古いものを「旧態依然としたなんちゃら」と蔑もうとする目がある。そうした目つきで物事を捉えてしまう。どうあっても対立、対比、あれか、これか、そうやってどちらかの立場で語るから結局歪みが生じる。
社会の端で何とか生きている私に出来ることは少ない。
こうしてお気持ち表明をしているだけである。死ぬ前にさ、それくらいいいだろ?
だから、そんな事象は置いておき、現実に広がる格差と現状を考えよう。Youtubeを漁っていたらそれなりに分かりやすい動画があったので、その話をしようと思う。
一番下にリンクを貼っておく。
適当にサマライズして適当に考えを述べるのが今回の目的です。個人的なメモの意味合いが強いので抜け漏れご容赦。
(「現実」もゴミ箱へ投げ入れろ!)
前置きが長くなったが、生活の余裕のなさ、将来の不安がこれらの嫌な活動に繋がってしまうとも思う。余裕がないから何かを攻撃する。不安だから威嚇する。不安だから襲い掛かる。臆病なクマの理論だ。
働いても給与は増えない。低成長を自覚しているのが20~30代。この現状が私たちの適応である。
動画で提示されたデータと所感
◆日本経済の話
私たち労働者と政策はどのような形で付き合うのが良いのだろう。
今の状況は功利主義的な形でよい社会を実現することもままならなくなりつつある。
お賃金の話
・私たちの年間平均給与は436万円
・非正規の人は174万円/2,000万人
・正社員の人は503万円/3,500万人
・お金を持ってる上位20%の人は貯蓄が5000万円ある。
・下位20%は負債の方が多く、▲600万円になる。
⇒有価証券の複利でお金を持っている人は更に資産を増やしている。
有価証券の複利で格差が広まっているのは資本が一番資本を獲得できるチャンスがあるからだ。そうして上と下の格差が拡大している。だから、資本が沢山あればそれが資本を生み、そこに至ろうとする私たち労働者は可能性が無いわけではないが、ほとんどない。残念ながら、それらがSNSで見れるようになり、そこに虚業をする連中や、私たちの無気力が現れる。
非正規が少ない、正社員の優遇をやめよう! といった声が見られるが、問題なのは正社員ですら多くないということだ。
ちなみに、日本の初任給は30年ほどかけて全然伸びていない。それだけ停滞している。その結果現れるのがみんなで貧しくなろう、需要を減らして、供給も減らそう。この考えだろう。そしてここで同じ仕事でも正社員に比べ非正規が少ない給与になっているから、雇用が守られている正社員に多すぎる賃金を支払っているから。といった話が出るが、私は甚だ疑問なのだ。
上記の5,500万人の労働者の間で対立しても意味がない。どちらも「労働者」であって、文句を言う先は別にある。仕事で問題があれば上にあげる必要があるように、これもそういった話なのだが、何故かそうなっていない。ここに違和感がある。
非正規に比べて簡単に解雇出来ない正社員の現状は恐らく日本の会社の成り立ちが親と子の関係のようになっていたからではないだろうか。最後まで面倒を見てやるから、がんばれよ、というどちらかといえばムラ社会に近いような形で、その時は頑張るだけ報われた。
経済の黎明期だから、そのほとんどが成長していく。その時代に生きた人は頑張れば出来るはずだと思い、今の私たちは頑張ったところで、といった物事が増えた。選択と集中という言葉はそうやって厳しい状況を表した。
無駄なことはしない。やらない。コストが掛かるから。
需要は減り続ける。
だから今の停滞があるのだろう。
今年の状況
助成金で延命治療をしているだけの状況にある。
・残業時間減+リモワでサービス残業が増える傾向があり、手取り減。
勤め先や事業の都合での失業が18年1月から1.7倍くらいに増えた。
契約満了での失業者も1.6倍程度になる。
・切られているのは非正規雇用が120万人ほど。正規+自営は50万人
・休職率は5月にアルバイトと派遣、非正規、契約社員が増大。
休職出来ていたのは雇用助成金があったから。
ここから倒産、雇用打ち切りが増える可能性が高い。
この状況から分かるのは、低所得者の生活が危うい状態に置かれているということ。そして確実に言えるのは、低所得層を放置したら日本の未来はないこと。完全失業率と自殺者数はおおよそシンクロしているので、経済対策をやらないと自殺も増える。
弱者を置いてきぼりにする社会に突入して、誰が得をするのだろうか。
戦後から来て、今の時代は金を儲けるのが難しくなっていて、求められるものも一層高度になっている。自己責任論にまやかされるが、それは貧困の要因ではない。
緊縮財政は悪か?
例外なければ緊縮政策でよいはず。歳出総額で支出はマイナス。
増税の結果、需要が落ち込んで景気が後退している状況下にあった。
今は減税をするべきではないか。
・政府支出は成長をけん引するので政策が重要。
・失業者が増えれば自殺者は増える。
正しい経済対策を取れているかで決まってくる。
・リスクヘッジ、利益が出ない対策は国がやるべき。(ダムとか)
景気後退期に消費増税
・2014年の増税により成長が横ばいになった。更に増税で下落。
・2018年9月から景気後退、2019年10月に回復しないまま更に増税した。
全部がコロナのせいではない。
・小売りと百貨店は2019年10月からずっと販売額がマイナス。
複雑な税制でコンビニ・大手スーパー、百貨店が割高に感じる。
・デフレ要因で買い控え文化がある日本人。
だからステルス値上げ。しかしそれで買わなくなる矛盾がある。
・世界的には物価は低下傾向。(OECD)
緊縮財政は支出を減らすか増税をして政府の財政を均衡化させること。今の状況が起きる前までも少しずつ均衡に向けて動いていたのが、支出マイナスからも分かる。ただし、今のような状況ではある程度政府が支出を出してやって、雇用と需要を生む必要がある。競争の只中に有って、起業したとしても数年で無くなったりする民間企業だけで成り立たせようとするのは無理な話ということだろう。
介護職で手取り14万とか、生きるだけで精いっぱいの状態であれば、病気や事故で何かあった時、それだけで経済苦となってしまう。すると自殺に至る。それなりに給与があって、安心して消費出来るような状態の方が需要も増えて経済は良くなる気がするので、最初は堪えて大きめに国が投資する方が良いように思う。
経済苦で生きられなくなって、自殺が出るという現状はそれだけ働き手を減らして、需要の増える機会が失われているということだから、そうした所を救い上げられるように減税や支援をする。全員がそれなりに生きられていて、それだけ需要がある。その形がどれほどの効果を持つのかが知りたい。
どんな国にするのが良いのだろうか?・弱者を切り捨てる国にする。新自由主義。
20,30代がそれを指向している感じがある。
・一部で大きい政府を認めて、国民全員で成長を目指す。
⇒お金にならないことは政府が推し進めるべき。
資本主義を推し進めるに当たり、新自由主義的考え、リベラルな考えが辛さを生み出している。いわゆるインテリ層が多いが、彼らは賢いので自分の力だけで生きられるし、それで喰っていけてるからそれが正しいというように振舞う。
機会による平等だけではより格差と分断が広まる。
インフルエンサーがマネタイズしていく形がビジネスかと問われれば恐らくそうなのだろう。しかしそれらは極一部の人の話だ。多くの人は雇われ、その中で合理的に動こうとする。昔以上に求められる効率と付加価値の創造。
そして私はそうした流れの中で、確実についていけなくなる日が来ることも分かっている。さしずめBullshit workerといったところで、加速し続ける社会からこぼれてしまう人間の1人としてこれらの状況を危惧している。
「それ見たことか、それは君の努力が足りなかったからだ」
「自己責任でしょ」
現実のものとなった暁にはそんな目つきで評される。
私が歳を取った時、そこに居場所はないのだ。
◆生産性の話
よく私たちの生産性がやり玉に挙げられる。日本は生産性が低いと言われるときに例に出されるのは、ハンコは無駄な手続きが多いから、組織が効率的に出来ていないから、無駄なマナーばかりがはびこるから、正社員の雇用が守られているから、サービス残業はあるし、生活残業なんてしているからだ。
そんなことがよく言われる。私は反省しなければならない。
ここで挙げられた事例がどの程度の規模で、どれだけの生産性を失っているのか。ただ外から見て「効率的じゃなそうで、無駄」と思っただけかもしれないし、それらを示す明確な値を調べたこともないから。
――そもそも、生産性ってなんだ?
一人当たり実質GDP=労働生産性×就業率×15歳以上人口比率
・労働生産性はGDPから求められるので、需要によって定まる。
デフレは需要が小さい状態だから日本の生産性は見かけ上低く出ているのではないか?
・国際競争力センターの調査で36か国中34位だが概念が曖昧で意味ないのでは。
国内総生産を人数で割ったもの。非情にシンプル。結局生産されるものは需要が無ければ成り立たないので、デフレだから生産性が低く出るという計算のようだ。
需要と供給のクロスする線図はどこかで見たことがある。
需要が無ければ生産性も無くなる。どうやら起点は需要らしい。
・労働生産性は3点で決まる。
ー労働稼働率
ー資本稼働率
ー技術進歩利率
⇒需要で大きく変わる。
・企業規模別の労働生産性は大企業の方が高い。
労働生産性:付加価値/従業員=一人当たりの付加価値
売上伸ばす、コスト減らす、従業員減らす。で生産性が向上する。
理想:売上を上げて従業員を増やし、労働生産性を上げる。
⇒大企業がダンピングすれば、中小の生産性が下がる。
・景気要因が含まれるから労働生産性の判断は難しい。
・一人当たりGDPは緩やかに上がっている。
労働生産性も緩やかに上がっているが就業率は下がっている。
企業別に見ればスケールメリットも生かせる大企業の労働生産性が高いのは何となく想像できる。ただし、ダンピングの問題が生じてしまえばどこかに歪がやって来る。
この社会で数はパワーだと思うので、売り上げ出して従業員を増やして更に売り上げ出して、その考え方は分かるものの実際にそれだけの付加価値が出せるか、そうしたサービスやモノを出していけるかと考える時、それらは飽和気味にも感じる。その結果が一人上がりGDPが上がりはするものの就業率が下がっている数字に繋がっているのかもしれないな。
けれども、従業員が増えれば今までそうした需要が持てなかった人の需要が生み出せるので絵空事でもなさそうだ。(やり方は分からないが。)
それを踏まえて今の経済対策の話があったのでかいつまんでいく。
・政策は目的の数だけ必要、今必要な効果的な政策は何か?
-コロナ対策で公費投入
90兆の国債増やしたがマクロ経済へ影響は出ていない。
-マクロ経済安定化(物価と雇用)
-構造政策として生産性の引き上げ。(持続的成長)
・現状は70兆円ほど需要が不足している。
経済が戻ってきているがV字回復はない。ゼロ金利の下では積極財政の効果は増幅。
これまたよくニュースで出て来る国債。日本の借金が、一人当たり七百万が、と言って不安を煽る時によく用いられる。確かに、債務不履行の可能性が付きまとうし、百兆を超える話とかが出てくれば、不安に感じるのは当然だ。
その一方で今はコロナ対策で巨額の国債が投じられても、経済は回っている。
資金が回っていれば問題ないとも取れる。
今回参考にした動画では、それらの解法として需要増が必要と言っている。需要はないのではなく、個人の経済苦を取り除けばまだ増やす見込みがあると。
・需要が減るから供給も減らすというのは間違ったデフレ対策。
そこで生産性の低い中小企業を統合すると失業者が増え賃金が減る。
⇒それで生産性が上がるとは限らないから。創造的破壊は無意味。
・需要を上げ続ける政策であれば、労働生産性が向上するはずだ。
需要/供給曲線を上げつつ、物価は2%ほどにする。という政策がいいのではないか。
また、需要減は人口減少が要因とは言えず、相関が無い。
そして、それに逆行するような考えが先細りしか生まないというのも、分かる。沢山の会社があって、それらにはBullshit jobsがあるのかもしれない。ただ、統合すれば数が減る。労働者の行き先がなくなる。そうすれば経済苦が生まれて、国の経済が縮小する。治安維持が困難になる。
縮小が良い方向に考えられない。この社会が成長を拡大を腫瘍のように孕み続けるのだから、ある程度はその流れに乗らないと生き抜けない。
無駄だなーと思っていたことも、調整弁として一役買っていたり、労働者を不良債権とさせずに需要を生んでいる。
・完全雇用の実現後に競争し労働生産性を向上させる必要がある。
資本を使い切ったその後に生産性の向上がある。
・マクロ経済は国や日銀がどんな政策をするかで決まる。つまり、デフレも政策の問題と言える。
・不況期に生き残る企業は単純に純資産を持っている企業しか残らない。
生産性が高い企業でも純資産が足りなければ潰れる。
だから、完全雇用を実現して需要を増やし、そこから労働生産性を上げようじゃないか。そしてこれは会社がやることではなくて、政策として考えないといけない。
つまり、私たちのような弱い人間にとって、政策を決める重要な場である選挙は必要だし、こぼれ落ちてしまう状況がなくなるように、手を取り協力していかないと今後ろくでもない未来がやって来るということ。
この状況で分断をやるのはやはり問題。弱者のための世界は協力が必要そうだが、そうする土壌を作るのも、やはり余裕がなければ難しい。
政策だけではなく、なにか、出来ないだろうか。
この矮小な手は、どこへも繋がらず、滑り落ちるだけか。
おわりに(参考にした動画です。)
今回は以下の動画のざっくりまとめ+私の所感を書いているが、動画を見た方がマシだと思います。(正しいかどうかの判断は各自。)
悪夢を臨む
弱者の話と内面の話が繰り返されるのがこのブログである。言葉を連ねることだけが私のやることであり、意義であり、その錯乱、恍惚だけが私である。仕事で無能な私は何も成し得ない。あの上下関係、強いか弱いか、この三十年と少しがずっとこれだけなのである。金と信用を得る。ということだけが私の存在意義になっている気がしてならない。
それなのに、何かをする気がないのだ。
休日は脳みそが死んでいる。
この世界は神を殺したが、宗教は殺せなかった。ただ、秩序や人生をより良くするための教えとしては必要だが、結局宗教が成し得たのは血と暴力。
オキシトシンによる排他性。自身の所属する集団が優れているという妄想。私たちは悪夢の只中にいるかのように思えてくる。といってもこの悪夢は恐らくキリスト史前から続いて来た。そうしなければ集団を作って他者から生存できなかったから。
それを悪夢と認識する私は集団の中に存在できないのであるから、少し前であれば孤独に肉食獣に殺されているか、他の集団から殺されているだろう。私というたんぱくが他の生物に召し上げられ、そうして循環していく。
悪夢は十分にある。人生に夢を持ってはいない。だからか私は夢をほとんど見ない。ただ死に、また次の日に死ぬ。これの繰り返しだ。人間の生、生活は必ず次を考えて生きる。そして唐突にその次は取り上げられる。そこまでとりあえず続けるこの錯乱。
人生への適応、時間への適応によって私は一日をほとんど認識できない。気が付けば一月経っている。そうやって精神は老いを認識できず、体だけが滅び去る。
*****
ガソリンスタンドに立っていたんですが、油種が分からずに立ち尽くし後ろからトラックが大きく空気を吐き、エンジンを吹け上がらせ、舌打ちが聞こえた。飛んできた煙草の吸いさしは足元に落ちた。
ここでなんのために生きているのですか。
大事な箱を持っていくためなんです。
そんなぼそぼそとしたやり取りをして、ガソリンスタンドからカー用品ショップを見ている。あそこに車が浮いていますね。箱はそっちの赤い床に置いてね。
ええ、車は浮くんです。
そうだったんだ。だから頻繁にメンテがいるんだよ。
ええ、車の下に入ってね、ラチェットを回すんだ。
今日の天気はグレーです。色が無い日には外出を避けましょう。だから子供たちは嫌がる。仕事に向かう連中は少し微笑む。
クルマエビが食べたいんですよね。帰ろう。ずるずると体にまとわりつくボイスロイドの音声が自我を形作った。私は結月ゆかりではない。違うんだ、信じてくれ。そう思っていた。口から出る言葉が私と違っている。
車が浮いているからだ。あれは自我だ。私は機械音声だった。
*****
何か創作がしたくてここへやって来たはずなのですが、私の頭はぼんやりと幕が掛かり何もしなくなっている。ただコンテンツを受け止めるだけの愚鈍、自涜を繰り返す猿のように思考は腐っていった。
そうして同じ話を形を変えて発している。
ゆえにそれは悪夢にも等しい。この社会が悪夢であり、その中に生きる私も悪夢である。もしくは<自我=悪夢>である。太陽に焼かれるには、そうである方が都合がいいが。
同じ所を回っているのが人生なのだろうか。ただ、孤独に苛まれているからだろうか。同じことが同じように生じ、同じような認識を設け、同じような言葉を連ねる。
私がここで50と少しの記事を書き終えた時、それを感じた。発覚した。誰かを愛せなかったからではない。誰かと人生を歩めなかったからこの繰り返しの中に落ち込んだのか、それは違う。
私が目指したもの、やりたかった表現、そうしたものをやった後に続くものが悪夢にしか見えなくなった。それは地下室から拡声器で叫ぶのにも等しい。
なにもないわたしは表現すらされずに消えてしまうのでしょうか?
このブログそのものが悪夢を臨んでいるものに他ならない。夢を見なくとも、悪夢を見ることは出来るのだ。このWEB上に溢れる極端化、排他性は田舎のムラ社会と似ているがより一層悪意が強まる。これは現実に蔓延る悪夢だ。
つまりだ。現実に生じ得る「悪堕ち」は緩やかな変化を遂げる。非現実的で「実用的」なものは洗脳を簡略化してそれを実現する。否定していたものを反転させる瞬間に、人間が取り返しのつかない場所まで進んでしまった時、そこに存在するカタルシスが私は好きである。面倒な人間がシンプルな形で人間でなくなるのが良いのだろう。
先鋭化した自我は人間ではない。この社会にもう個人はないのかもしれない。
そう思い始め、私はこの社会との接続がほとんどないことに気付く。
もうどこにも、誰にも、なんであっても、私はただ悪夢を見て生きている。この社会が辛く、分断を狙う阿呆どもの踊り場でしかないのであれば、やはり悪夢だ。夫婦別姓の話も、選択的とのたまいながら同性を「旧態依然とした」とか「価値観のアップデートが出来ていない」などと集団を分け、自身の糞下らない恍惚に使い、ただただ分断を産もうとする目的に幾つか思い当たり私は全てに石を投げつけたくなる。
お願いですからわたしを表現して頂けないでしょうか、お願いですから。
それらの記号が意味するところは何にもないのであるが、その記号にしがみつかなければならないアイデンティティなど捨ててしまうべきだ。そうした名前わけの区分が集団としての意識すらも分けてしまうのを恐れる。攻撃的な人が、夫婦の姓で揉め、それを子供に押し付ける先が容易に想像できる。(大多数はそこをそれほど気にしないようには思うが、活動をしている人間の熱を見るとそう感じてしまうのだ。)
子供に両親を選ばせる。子供が姓の違いを集団の違いのように捉えて疎外感を覚えないか。など、大人の都合なのに子供に責任を押し付ける。
悪夢がまた「価値観のアップデート」として追加されるのかもしれない。
弱者のための世界4
孤独死の問題を取り上げる。
なぜなら、私が必ず陥る問題だから。
社会から見えない透明な存在である私がここにいるのは、こうした文章の中だけであり、冷淡な女の目と暴力的な男の目から逃れられずに喉を掻きむしる以外にない。私は私の膨張し異様な形に歪んだ性的なものを引きずる。人間かと思っていたが、それを見れば人間ではない。
昔、ゴブリンというあだ名が影でついていた。あの時はニキビのせいだったが、今は哀れな小鬼かもしれませんね。人間から距離が離れれば、後は死ぬよりほかない。
糞真面目な精神が私たちを疲弊させる。
正直であろうとすればするほど、しっかりと仕事をしようとすればするほど、そうなる。孤独を感じやすく、ストレスを抱え、心筋梗塞、脳梗塞の危険が高い。サラリーマンは雇われなのでそんな責任感を感じなくていいのに、感じさせるのはこの社会を真面目に捉えているから。
人間なんて根本はクズで阿呆でどうしようもないんだから、やっぱり少し辛かったら手を挙げる。自ら助けを求めやすい社会が良い。
そこにも卑劣な連中は連なるから、難しい所なんですけどね。
例えば、適当で口の上手い連中が耳触りのいいことを喋り、現実をまやかす連中だ。私たちはそれに付き従い、そうした「信者」と分類されて、判断力を失っている。個人の時代というものは嘘である。それは弱者を置いてきぼりにする。私たちは弱いのだから、個人でなど生きられる筈がない。
そこに理想はない。そこに誤魔化されれば、やはり思うつぼである。
私たちは孤独である。手を差し伸べようともその声は聞こえない。その中で潰れていく喉は潰され、他者に迷惑を掛けたくないばかりに一人で消えゆく。
SNSで繋がりが増えたという人間は、本質を見誤っている。そこには表面しかないのだ。実際に会わなければ、対話しなければ。その機会を生み出すツールとしては良いが、今は糞みたいな使い方ばかり目立ってしまう。
私たちが社会と繋がるのは、生身であって、その繋がりをもっとうまく回せないか、この社会がつまづいただけで死なないような社会にしなければならない。生き辛さを抱える人間も生きられるようになっているのだから、死に至る社会構造だって変えられる筈だ。
助けを求めるのが恥ずかしいと思うことはどこから生まれたのか。私は他者との交流が苦手だから、このまま孤独に消えればよいと考えて、助けを求めようとしていない。他人に迷惑を掛けて来たから、これ以上迷惑を掛けたくないという糞真面目な精神がある。しかし、どうあっても他人には迷惑を掛ける。だからせめて自分が出来ることをやる。些細な事でいいはずなのに、どうして大きなものを求めてしまうのだろう。周囲のまやかされた「キラキラ」が世間に目立っているからだろうか。
福祉の網の目から透き通ってしまう私たちは、セルフネグレクトに陥ったとしても、誰からも助けてもらえない。「ただ迷惑な隣人」 として存在するだけとなっている。
この社会構造を変えることは出来ないだろうか?
自ら助けを求め、その助けを周囲に広げていく。小さな活動から、私たちは弱いのだから、そうやって協力していく他ない。対話なき場所には偏見と狂乱が満ちている。
そうした活動をする人間は弱くない。私は弱くないのか、それとももう狂ってしまったのか、日常を続けるという行為は狂気である。明日を必ず迎えることが出来るという自信は現実ではない。
孤独死した40代女性「社会的孤立」が招いた悲劇 | 災害・事件・裁判 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
浴槽で亡くなった場合は、警察が水の張っている風呂の中から、遺体を引き上げる際に、栓を抜いてしまうことが多い。つまり、腐敗した体液が、排水溝にそのまま流れてしまうというわけだ。これが、のちに大問題を引き起こす。
マンションの1階ならまだしも、上層階で孤独死が起こった場合、下層階まで排水管を伝ってその臭いが下の階に漏れ出てしまうのだ。下手をすると、マンション1棟を巻き込むほどの、大騒動が勃発する。
私たちは浴槽で熟成されたシチューのように不定形だ。透明だった存在は鼻を駄目にする臭いとしてこの社会に現れる。病んだ精神と病んだ社会が生み出した臭気が私たちであり、孤独死は私たちの行きつく救いである。
孤独にひっそり死んだとしても、処理に数百万円かかる。私たちはどうあっても迷惑を掛けるのだ。だから、その迷惑が小さいうちに何とかしなければならない。仕事でやった失敗を隠し通すことなど出来ない様に、そうやって隠していても結局はどこかで漏れ出て破裂する。時間が経つほどに失敗は呪いへと変わり、手の施しようのない損失が生じる。
だからこそ、小さなつまづきをフォローできる社会が必要なのだ。
自助努力と口を酸っぱくしたところで、その最初の突っかかりで崖に落ちないようにしなければこの社会は自己責任にまやかされて駄目な所へ進んでいく。
孤独死は社会からの孤立、親しい者からの孤立。
隔絶された個人が至ってしまう<病>である。
私が実践しようとしたが成功していない孤立しない方法は三つある。
- 家庭を持つ
- 決まった周期の社会活動に参加
- カウンセリング
まずは一つ目。
家庭を持つという行為がある。私の世界観が変わらないのであれば、最初から最後まで、弱い男はパートナーも家庭も得られぬ。男らしさというものが生き物として効率的な選択をしている。だから、間引かれ淘汰されるべき人間が私である。ただし、人間はそうした動物的世界から逸脱している。動物ではあるが、非動物的な世界を作り上げた。だから私のような淘汰されるべき人間でも生きているのである。
だから、もしかすると孤独死ではないかもしれない。しかし、その可能性はサイコロの同じ目が三連続で出るくらいには小さい。世間にある男性像からは遠く離れ、それは努力が足りないから足りないから、そんな風に扱われる。
数年前、異性と知り合う機会を意識して作っていたが、結局そのほとんどが一度切りの場だった。大抵、私は切り捨てられる側に存在している。私の対話能力が悪いから、どうやら、あなたに興味があるんです、という意思表示が私は弱いのかもしれない。
そんな風に思い試行錯誤している内に、つまずいちまった。ただこの辛い人生を協力して乗り切ろうとしたかったのだが、私は自分だけで精一杯だった。これは知らず知らずに打ち込まれた役割としての男が様々な「らしさ」を私に押し付けるからだ。
男らしく、女を支えなければならない。傅かなければならない。金を稼がなければならない、強くあらねばならない。
残念ながら、このらしさは私一人の問題ではないから、女が女らしさの解放を時折叫ぶように、男も男らしさの解放を叫ぶ。ただし、それは冷笑を持って聞き流される。前者からも、それを聞いた周りの連中からも。
フェミニズムを謳う男が男らしさを押し付けているのを見て、私は失笑した。人間は性差から規定される役割からは逃れられない。その役割から離れて生きられるようになったにも関わらず、ずっとそれが残っている。PVを稼ぐ記事やコンテンツもここから生えている。そうして分断を生じさせようとする。
拗ねてもいいが、そのわがままをただ感情のままに押し通してはいけない。良く考えなければならない。考える場合、SNSは表面的でセンセーショナルな言葉しか目立たない役立たずの拡声器だから、そんな場所で議論など生じ得ない。ただただ感情がぶつかり、弾け、炎上などとしょうもない喚きがそこにある。
だから、けっきょく。
私はこれを選ぼうにも選べなかった。
一つの人間性の喪失である。
次に二つ目
また、毎週ある社会活動に参加することも一つだ。ボランティアでも、趣味の活動でも、誰か他者と対話が生じる所を探す。精神状態が良くなく、セルフネグレクトが生じる前に、社会との繋がりを増やしておく。なんでもいい。小説の朗読会でも、朝活でも、勉強会でも。何か居場所となる場所が必要なのだ。
はじめは上手くいかない。変なやつだとして距離を置かれる。これが辛いのです。最初は会話出来ていたのですが、段々出来なくなって、止めてしまうんです。全員が私を陥れようとしているのではないでしょうか、どうして嫌うんですか。私が悪いんですよね、成長せず、ただここに留まる私が。
私は沢山の人達と関わるのが苦手なので、ゲームや何かをしながら、というものでなければ上手くいかない。それを分かったうえで活動をしようとしてもまだ上手くいかないのだ。
社会活動は人間関係なので、必ず嫌な面や面倒なところがある。この障壁が大きいと感じて躊躇してしまう。こんな奴等、こんな連中が、私を知らずに馬鹿にしている。監視している。私を陥れる為に、私をこの社会から排する為に。
そんな風に、精神のバランスを取れていない状態ではお勧めしない。
先にも述べたように、小さなつまづきで崖から落ちない様にするために、こうした活動がある。誰かの助けになることをして、感謝をされる。小さいことでもいいんですが、そうした経験がちょっとでもあれば人生の足しになるのだ。
最後です。
カウンセリングに行く。
私もはじめ、しょうもないことで、と少し敷居が高いように思っていた。こんな愚痴かどうか分からないもやもやを、拗ねちまった怒りを、誰かに話して変わるものかと。そうした所で何も変わらないのだから、言っても無駄なんじゃないかって。
男として考えた場合、その行為に結果を求めがちなので、そう思ってしまうが、ただ吐き出すという行為がつまづきをちょっとしたものに済ます役に立つ。感情はどこかで吐き出さなければならない。呼吸と同じようなものなのだから。
ただの対話と何が違うのでしょうか?
とひねくれた私が言い始めた。これを二つ目と分けた理由は、関わる相手がある程度の専門性を身に着けているから。友人や親しい人間、適当な他人に込み入った話をしたり、感情に寄り添ってもらおうとするのは実は難しいです。そこには「らしさ」が氾濫していて、無自覚な押し付けが生じてしまうから、上手くいかないこともある。(また、支えてくれた人がいたので何とかなりました! という話や書籍を見かけるけれど、私たちのように孤立している人間にそれは役に立たない。なぜなら、そんな相手を見つけることも出来ない弱い人間だからだ。)
私はよく利用している。それなりにコストはかかるけれど、感情に寄り添いながら、少しずつ良い方向に変化させるやり方で、小さなつまずきや精神の痛みをひどくならない形にしてくれる。人にもよるんですが、こうしたものは本当に辛い、ヤバイ、といった状態になる前に行くのが本当に良い。抱えきれずに零れてしまう頃には数か月、数年単位で癒していくしかなくなるから、些細なことでもそうした傾聴してくれる他人にぶつけてしまうのが良い。(勿論、友人などの親しい人でも効果はあるんですが、何度も繰り返せばそれは迷惑だし、同じことばかりで変わらないから相手が離れる要因にもなってしまう。そうすれば更に孤立が深まる危険性が有る。)
私は生来ものぐさなのであまりこうした活動をしないが、そうやってずっと籠った結果を知っている。自傷を始める暴力性を目の前で見ている。
だからこまめに、こうした社会と繋がる小さい行動をするようにしている。消えてしまいたいこの無能はまだ死ぬ気が無い。波は激しくとも、凪ぎは時折訪れる。
私の人生はつまづきばかりです。一気に孤立へ追い込まれたことはありません。この社会とは徐々に徐々に孤立していきました。急激な変化ではないので極端な行動に走らなかったのかもしれませんね。
最後の最後です。
セルフネグレクトは以下の悪化順序を辿ることが多いです。最初の兆候が出て来たと思った時に「忙しいから」と思うだけでなく、一度立ち止まって溜まっているものを吐き出す。なんでもいいので、こまめに発散する場を設ける。そういった意味で、カウンセリングは役に立つ。というのが私の実感です。
自身の身の周り、他人の身の周り、細かい所から精神の異常が生じますので。
- まず水場が汚くなる
- 次に自炊・掃除がなくなり
- ゴミが溜まり始め
- 出掛ける気力が消えていく。
- 寝床でずっとスマホの画面を見て無為な時間を過ごし、眠るだけ。(私はアルコールが人より分解できないので飲めず、ただ眠るだけです。)
私は孤独に喘ぐ粗忽者。ここでは長く生きられぬ。
だからこの記事を残している。弱さの境界に足を踏み入れ、途方もない不安と孤立に飲まれないよう、誰かの参考になればと思いここで文字を並べている。
記事を書くにあたって下記引用の言葉が身に染みて分かります。
私は中途半端な弱者として、ぎりぎり大人をやっています。
だからきっと最後は孤独死。ビニールシート二枚重ねで床に敷いていた方がいいように思っています。
ふとした人生でのつまずきが、一気に本人を孤立へと追い込み、社会から隔絶したまま、孤立、孤独死してしまう。それは、私自身も含めて、誰の身にも起こりうることだ。
今日は長くなってしまいました。
さようなら。
弱者のための世界3
無自覚な殺生が私たちの原型にある。
羽から裂かれたトンボ、踏み潰されたハエトリグモ、暴力を振るう遊びが学生時代に有った。どうして小学生の頃にベンチコート狩りと称していちゃもんを付けられたのだろうか。頸動脈を押えられたとき、私の意識は消え、現れたモザイクは肉体の不自由さを十分に感じた。無意味に、無自覚に私は肩を殴られた時に泣いてしまった。ああ、暴力が私を嫌な所へ押し込めるのだ、と。
弱者にペットが必要な場合もある。人間の中で上手くいかないから、他の動物と一緒に暮らしてシンプルな関係を築く。餌をやればついて来るから、彼らと生活を共にできるから。
一番身近に暮らしてきた犬、馬は主にパートナーとして。
私たちの赤子を狙って狩猟をしてきた猫は同居人として。
私は同じ場所にいるだけの関係でも良いと思っている。目の良いハエトリグモはこちらを視認する。マウスポインタを獲物と思い飛び掛かる。持久力の無い書肺だから、しばらくすれば息切れして動かなくなる。
それぞれ、どういった距離感で動物と関わりたいかだとは思う。ただ愛でる、可愛がる。そうした所から私たちは動物と暮らす。
私は動物に対して責任を感じてしまうから、ぬいぐるみ程度でよい。何かを抱いて眠るとき、柔らかな感触がとりあえずの安心をもたらす。人生は誤魔化せればいい。そうして上下の分断が生じて、弱者として誤魔化されてお為ごかしの溜飲が下げ施策を享受して老いていく。孤独は癒しではない。単に変化が少ないだけの凝り固まった安心感なのだ。
あまり知られていないのかもしれないが、ペットという表現はコンパニオン・アニマルに変わってきている。変わった所で、私たちが生殺与奪を握っているのは変わりがないが。
言葉、記号表現が表面的な意味合いを変えればよいかといえばそうでもない。
ただあるのは生殺与奪が私たちにゆだねられるということだ。
人間の社会に連れてこられた生き物がそこで自由に生きられる筈がない。
(個人的な意見では、そうした変化をするべきではないという人間の責任は理解しても、その変化ですらもこの自然の摂理であると考える。人間だけが、それを特別な行為として認識する。それらの変化が他の生物を滅ぼそうとも、この地球で人間が生きられなくなろうとも、それが動物のありようなのだから。守ろうとしたものの裏にある犠牲は必然だ。)
そうやって表面的な言葉に振り回される。他の動物は私たちのために生きているのではない。たまたま同じ場所にいたから、彼らを生かす責任を持とうとするのは非常に重い。SNSで癌になった猫を「最後は自由に過ごしてほしい」と無責任に外に「捨てた」話を見かけた。これは耳触りの良いことを言う犯罪者です。とACのCMに有ったのを思い出した。またはそれも見たのかもしれない。私は主体ではないから。
自分の得にならないからさようなら。社会のルールからも外れ、生き物に対する責任は恐らく理解できていない。
それらの発言がフォローされる、支持される。「何」を信じるか、ではなく、「誰」を信じるかばかりが溢れている。私たちは中途半端に弱いから、自身の考えで何も選べないのだ。私たちは決断しない農耕民族、なのだろうか。
WEB上に溢れる有象無象のご立派な感性の中に正しさを見出すのは危険である。私たちは弱いからその流れに乗る以外ないのだが、せめてその間を流れることは必要に思う。何か一つあれば、それが人生の「攻略法」就職活動の表面的な攻略法とよく似ているが、そんなものは常に存在していない。はたから見えるものは結果である。たまたま適応の施策が上手くいった。運が良かった。この社会のルールに沿っていれば、そうではなく自分の力で成し得たことも確かにあるが、ちょっとしたタイミングの話でもある。
ビタミンを発見した日本人の功績は、その後に発見された人の功績となった。
英語で論文が出なかったからである。
弱者は報われない。誤魔化しが大半だ。
動物と一緒に暮らそうとも対象喪失は必ず訪れる。犬だろうが、猫だろうが、人だろうが、どうあっても別れなければならない。社会へのBest effortを繰り返していても、虚しさは付きまとうのがこの自我なのである。多くの人間の悲しみが癒えるのは四か月から十二か月掛かる。それ以上かかればカウンセリングなどで「感情の弔い」をする方が良い。しかしながらその機会もまだ気楽に出来る社会とはなっていない。
どこか特別なものとして認識されていて、そういうことをするのは病気か、それに近い人間だけである。という世界観がこの国にあるように感じる。後は金額の話か。
弱者だから、弱いところの話は親しい人であっても正しく感情に寄り添ってくれることはない。だから、もっと気楽な形でカウンセリングが出来るようになればいい。かといって、HSPは治せます! みたいなこすいビジネスに数十万は間違っている。弱者は利用される。斯様な連中がのべつ幕なしにこの資本主義に従い、稼ごうと知恵を絞る。人生の価値、意義をそこに置いてしまえば、誰も幸福にはならない。
私は仕事で堂々巡りや同じ失敗を繰り返して立ち止まり、苦悩することがある。何故、私はこのように他人が出来ていることが出来ない、頭が悪いからだ、この社会で生きる価値が無いからだ。それならこの社会を破壊しなければならない。そうやって何かを起こして病院へ。そうした悪い想像へ落ち込まないようにするには、それはそれ、他人の真似を、感情に寄り添う時に注意しなければならないのは、肯定と否定をしないことだ。感情は環境を変えるための選択機構である。極端なところにある考えに紐づいた感情で何かを選択させてしまうのはとても危険な行為となる。
先日マン・ダウンという映画を見ていた。そこに出て来たのは精神病の男だ。辛い現実はパパを壊してしまった。キャッチコピーと共に映画の出来としてはエンタメ足り得ないが、辛くなると衝撃を受けると自身のお馴染みの世界から抜け出せなくなる。教育実習の先生は天使を見付けるのだが、全て自分の中にしかない妄想である。しかもそれは終わらない強固な輪となり、人間をある一つの世界観に取り残していく。
私たちは世界と接続し世界観は常に変化していくが、それがなくなる。個人の領分だけが世界であり、そこから得られるものは「世界」=「世界観」であり、それは接続ではなく一体化であり「灰化した世界」である。
事実は変わらない。感情だけが取り残されていく。
だからそれらに寄り添ってあげないといけないね。
私は私の中にその外側を用意しようとしているが、上手くいってはいない。
生き物に対する責任が持てないのもまた、自分を生かすのに必死な弱者であるからだ。私はそれが怖くなり、このような場所で小さな反抗を、思春期の子供のように繰り返している。
もう、三十代だというのに。
私は弱いが、だから生きている。男の子だからな。
偶像崇拝との距離
私は現実の人間に執着する前に逃げ出した男である。
孤独にはウジがたかる。
楽しいことを考える、これが徐々に削られて嫌な所へと向かっていく。
私がまだ学生だったころ、アイドルの握手会に参加したことがある。
特に曲も聞いたことがなく、
なんのために、ここに来たのですか。
その少しヒヤッとした手の感触と、
それだからか、投げ銭はよくわからないのだ。
そこに打ち出された文字列が何を意味するか、
妄想である。
しかし、
そうしたアホらしさが世の中の余裕を示し、
∴私は人間ではない。
しかしながら応援したい、
忘れ去られようとする最中の懐かしみがそこにあったが、
退屈なお喋りとゲームと、それが嬉しい。
コンテンツとして面白くしようという意図が伝わるものは見れたの
それらは私の拠り所でも癒しでの楽しみでもなかった。
それだからか、
例えば、自分で自分の機嫌を取る必要がある。
ワザと女にだけぶつかる人も恐らく似たような思考を始めている。
しかしながら、
全て女に対する偶像崇拝である。暴力性を発露させようとも、
それが分かる例を示すとするならば、
私たちが金を出す時、キャラクターだけがそこにある。
それだからセンセーショナルな嘘があり、絵があり、
行き着くところは原始に存在していた。
そこに酩酊する。これらは社会に強く接続されているが、
だからこそ、私は性にも淡白である。殊更他者との接続はなく、
私は弱い。現実を把持する能力が低いものだから、
しかしながら、それを利用する者どもに気をつけなければ。
世界は全くもって不条理に浮かび、
だからこそ崇拝が必要だ。
神の女となり、子を成そうと考えたシュレーバーも、
弱者のための世界2
肝心なことを忘れていた。私たちが定義する「弱者」についてだ。
本当に弱者とされる人たちと、これまで示した弱者は異なる。当たり前だが、意味合いはソフトなものになる。私はどこまでも卑劣であるから、そういったことを忘れる。ジャックナイフを頭に突き立てろ、それ以外に法はない。
普通の社会生活を送る中で脱落してしまう人たち。またはその境界。
こうした人たちはWEB上でHSPや発達障害テストをやって留飲を下げている。本当に苦しんでいる人たちに対して、やはり卑劣な人間である。もちろん私を含めてだ。
全て中途半端なのだ。どこへ行こうとも、普通より少し劣っている。しかし、社会生活を送るには何とかやれている。愚痴や恨み節に塗れ、日常に発狂する。これまで上げて来た団体や連中もおおよそそういった人たちだろう。ただただ留飲を下げれば世は並べて事も無し。そうやって誤魔化して上下の格差は開いていく。かつての自由の国は、果たして自由だろうか。
そも、自由を望んでいる人間など本当に存在しているのだろうか?
私にはそう感じられない。そこには用意されているフレームがある。なあ、そこへ入れば自由なのかい? はは、こりゃいいや。なんだって用意されてらあ。
お望みなら、この社会と酩酊をお渡ししますよ。
だから弱者なのである。新自由主義がこの活動を加速させる。私たちは弱いから、様々なものにたぶらかされる。それは甘言めいて私たちの居場所を設ける。社会から孤独になった人間の行く先は極端な思想である。ここで話題にする弱者はそうした所へ落ちるか落ちないか、そうしたキワにいる。
そうした人たちで協力できるかと言われれば、それも出来ない。徒党を組んだ所でそれは結びつきが強くはないのだ。誰かの考えを借り物にして積み上げられる自我、アイデンティティは勿論紛い物だ。そうした軽さがあるからやはり割を食う。
糞の中で糞を喚く。それを喰って喜ぶ。
人間とは食糞漢である。それに気付かずに匂いと色を偽装した糞を喰らって喜ぶ。勿論私も、これを読んだ人も変わらない。だが、それに反発する必要もない。この世界観と接続したところでそれは弱い。ニュートリノの観測ほどに姿は見えない。
私は自身の短絡的な思考を恥じているからだ。すぐにそれは見て取れる。野菜しか食わないと決めて肉を喰う私を罰した。いいえ、それは罰したのではなくてパフォーマンスね、静かに寝てて頂戴。私は弱いのだ。意思が弱く、内奥の幾つかのキャラクターが語り始める。口々に叫ぶ様はただただこの現実世界からの逃走である。
弱さとは逃避である。動物らしさとは逃避である。
弱き人たちがどうしてもここから逃げ出せないのであれば、それはこの社会の欠陥である。この社会が人間をよりよくすることなど出来ないと匙を投げるのである。民主党から共和党を馬鹿にしている。N国に連なる。暴力革命を支持する。
ああすべてがくそったれのなかで悲観することすら単なる自己恍惚に過ぎない。自我を破壊しなければならない。私の世界観はどこからも離れた接続を求めている。かのようなパーソナリティが社会にすり減り、かつての友人たちとの決定的な溝を描き出す。
弱者を利用するのは簡単だ。適当に私たちに耳触りのいい言葉で実現できそうなことを語ればいい。選挙で五万円配布するといった候補者が選ばれてみれば難色を示す。民主党政権が発足した瞬間に喜んでいたのは誰だったろうか。
私たちではなかったか?
私たちが容易く利用されたのではなかったか?
私たちが選ぶ多くの物事が何かによって間違った方へ進み始める。これは民主主義の敗北である。針の穴を通すような難しさがあるのが民主主義だ。「国民」に話題をすり替える人間、さもこちら側の人間だと思わせる連中。そういったものは数限りない。人間の歴史が始まった時から、おそらくずっとそうである。
目に見えない弱者は、この社会に多く存在する。
私たちは進んで盲になり、この轡を嵌めて涎を流すばかりだ。
努力も出来ない人間はこの社会に必要ない。出来ることはなんだ、お前の価値はなんだ、私は何者だ、この世界にどんな意味がある。
問われ続ける社会は、弱者には優しくない。しかし、今を手放すことのできる思想が私にはない。
BIがそれを実現するかに思えたが、それはまだ分からない。
結局、膨大な距離を付けた格差が、BIによって誤魔化されて私たちが生存するだけなのかもしれない。その差を決定付けるために、そこ以外に行けないように、一つの場所に縛り付けられる。この軽々しい自由を手に、私たちはそれを弱者の世界として受け入れなければならないのだろうか。
・・・ある一つの価値観がこの世界の自由である。
そこに根差したこの意識はタワゴトだろうか。ただ、拗ねちまってる。
大言壮語に過ぎた文章の連なりはいかなる世界をも描き得ない。語られた言葉を引用するだけのスポークスマンである。
緩やかな奴隷として私たちは縛り付けられるより他ないのだろうか?