Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

悪夢を臨む

 弱者の話と内面の話が繰り返されるのがこのブログである。言葉を連ねることだけが私のやることであり、意義であり、その錯乱、恍惚だけが私である。仕事で無能な私は何も成し得ない。あの上下関係、強いか弱いか、この三十年と少しがずっとこれだけなのである。金と信用を得る。ということだけが私の存在意義になっている気がしてならない。

 それなのに、何かをする気がないのだ。
 休日は脳みそが死んでいる。

 この世界は神を殺したが、宗教は殺せなかった。ただ、秩序や人生をより良くするための教えとしては必要だが、結局宗教が成し得たのは血と暴力。

 オキシトシンによる排他性。自身の所属する集団が優れているという妄想。私たちは悪夢の只中にいるかのように思えてくる。といってもこの悪夢は恐らくキリスト史前から続いて来た。そうしなければ集団を作って他者から生存できなかったから。

 それを悪夢と認識する私は集団の中に存在できないのであるから、少し前であれば孤独に肉食獣に殺されているか、他の集団から殺されているだろう。私というたんぱくが他の生物に召し上げられ、そうして循環していく。

 悪夢は十分にある。人生に夢を持ってはいない。だからか私は夢をほとんど見ない。ただ死に、また次の日に死ぬ。これの繰り返しだ。人間の生、生活は必ず次を考えて生きる。そして唐突にその次は取り上げられる。そこまでとりあえず続けるこの錯乱。

 人生への適応、時間への適応によって私は一日をほとんど認識できない。気が付けば一月経っている。そうやって精神は老いを認識できず、体だけが滅び去る。

 

*****

 ガソリンスタンドに立っていたんですが、油種が分からずに立ち尽くし後ろからトラックが大きく空気を吐き、エンジンを吹け上がらせ、舌打ちが聞こえた。飛んできた煙草の吸いさしは足元に落ちた。

 ここでなんのために生きているのですか。

 大事な箱を持っていくためなんです。

 そんなぼそぼそとしたやり取りをして、ガソリンスタンドからカー用品ショップを見ている。あそこに車が浮いていますね。箱はそっちの赤い床に置いてね。

 ええ、車は浮くんです。

 そうだったんだ。だから頻繁にメンテがいるんだよ。

 ええ、車の下に入ってね、ラチェットを回すんだ。

 今日の天気はグレーです。色が無い日には外出を避けましょう。だから子供たちは嫌がる。仕事に向かう連中は少し微笑む。

 クルマエビが食べたいんですよね。帰ろう。ずるずると体にまとわりつくボイスロイドの音声が自我を形作った。私は結月ゆかりではない。違うんだ、信じてくれ。そう思っていた。口から出る言葉が私と違っている。

 車が浮いているからだ。あれは自我だ。私は機械音声だった。

*****

 

 何か創作がしたくてここへやって来たはずなのですが、私の頭はぼんやりと幕が掛かり何もしなくなっている。ただコンテンツを受け止めるだけの愚鈍、自涜を繰り返す猿のように思考は腐っていった。

 そうして同じ話を形を変えて発している。

 ゆえにそれは悪夢にも等しい。この社会が悪夢であり、その中に生きる私も悪夢である。もしくは<自我=悪夢>である。太陽に焼かれるには、そうである方が都合がいいが。

 同じ所を回っているのが人生なのだろうか。ただ、孤独に苛まれているからだろうか。同じことが同じように生じ、同じような認識を設け、同じような言葉を連ねる。

 私がここで50と少しの記事を書き終えた時、それを感じた。発覚した。誰かを愛せなかったからではない。誰かと人生を歩めなかったからこの繰り返しの中に落ち込んだのか、それは違う。

 私が目指したもの、やりたかった表現、そうしたものをやった後に続くものが悪夢にしか見えなくなった。それは地下室から拡声器で叫ぶのにも等しい。

 なにもないわたしは表現すらされずに消えてしまうのでしょうか?

 このブログそのものが悪夢を臨んでいるものに他ならない。夢を見なくとも、悪夢を見ることは出来るのだ。このWEB上に溢れる極端化、排他性は田舎のムラ社会と似ているがより一層悪意が強まる。これは現実に蔓延る悪夢だ。

 つまりだ。現実に生じ得る「悪堕ち」は緩やかな変化を遂げる。非現実的で「実用的」なものは洗脳を簡略化してそれを実現する。否定していたものを反転させる瞬間に、人間が取り返しのつかない場所まで進んでしまった時、そこに存在するカタルシスが私は好きである。面倒な人間がシンプルな形で人間でなくなるのが良いのだろう。

 先鋭化した自我は人間ではない。この社会にもう個人はないのかもしれない。

 そう思い始め、私はこの社会との接続がほとんどないことに気付く。

 もうどこにも、誰にも、なんであっても、私はただ悪夢を見て生きている。この社会が辛く、分断を狙う阿呆どもの踊り場でしかないのであれば、やはり悪夢だ。夫婦別姓の話も、選択的とのたまいながら同性を「旧態依然とした」とか「価値観のアップデートが出来ていない」などと集団を分け、自身の糞下らない恍惚に使い、ただただ分断を産もうとする目的に幾つか思い当たり私は全てに石を投げつけたくなる。

 お願いですからわたしを表現して頂けないでしょうか、お願いですから。

 それらの記号が意味するところは何にもないのであるが、その記号にしがみつかなければならないアイデンティティなど捨ててしまうべきだ。そうした名前わけの区分が集団としての意識すらも分けてしまうのを恐れる。攻撃的な人が、夫婦の姓で揉め、それを子供に押し付ける先が容易に想像できる。(大多数はそこをそれほど気にしないようには思うが、活動をしている人間の熱を見るとそう感じてしまうのだ。)

 子供に両親を選ばせる。子供が姓の違いを集団の違いのように捉えて疎外感を覚えないか。など、大人の都合なのに子供に責任を押し付ける。 

 悪夢がまた「価値観のアップデート」として追加されるのかもしれない。

弱者のための世界4

 孤独死の問題を取り上げる。

 なぜなら、私が必ず陥る問題だから。

 社会から見えない透明な存在である私がここにいるのは、こうした文章の中だけであり、冷淡な女の目と暴力的な男の目から逃れられずに喉を掻きむしる以外にない。私は私の膨張し異様な形に歪んだ性的なものを引きずる。人間かと思っていたが、それを見れば人間ではない。

 昔、ゴブリンというあだ名が影でついていた。あの時はニキビのせいだったが、今は哀れな小鬼かもしれませんね。人間から距離が離れれば、後は死ぬよりほかない。

 糞真面目な精神が私たちを疲弊させる。

 正直であろうとすればするほど、しっかりと仕事をしようとすればするほど、そうなる。孤独を感じやすく、ストレスを抱え、心筋梗塞脳梗塞の危険が高い。サラリーマンは雇われなのでそんな責任感を感じなくていいのに、感じさせるのはこの社会を真面目に捉えているから。

 人間なんて根本はクズで阿呆でどうしようもないんだから、やっぱり少し辛かったら手を挙げる。自ら助けを求めやすい社会が良い。

 そこにも卑劣な連中は連なるから、難しい所なんですけどね。

 例えば、適当で口の上手い連中が耳触りのいいことを喋り、現実をまやかす連中だ。私たちはそれに付き従い、そうした「信者」と分類されて、判断力を失っている。個人の時代というものは嘘である。それは弱者を置いてきぼりにする。私たちは弱いのだから、個人でなど生きられる筈がない。

 そこに理想はない。そこに誤魔化されれば、やはり思うつぼである。

 私たちは孤独である。手を差し伸べようともその声は聞こえない。その中で潰れていく喉は潰され、他者に迷惑を掛けたくないばかりに一人で消えゆく。

 SNSで繋がりが増えたという人間は、本質を見誤っている。そこには表面しかないのだ。実際に会わなければ、対話しなければ。その機会を生み出すツールとしては良いが、今は糞みたいな使い方ばかり目立ってしまう。

 私たちが社会と繋がるのは、生身であって、その繋がりをもっとうまく回せないか、この社会がつまづいただけで死なないような社会にしなければならない。生き辛さを抱える人間も生きられるようになっているのだから、死に至る社会構造だって変えられる筈だ。

 助けを求めるのが恥ずかしいと思うことはどこから生まれたのか。私は他者との交流が苦手だから、このまま孤独に消えればよいと考えて、助けを求めようとしていない。他人に迷惑を掛けて来たから、これ以上迷惑を掛けたくないという糞真面目な精神がある。しかし、どうあっても他人には迷惑を掛ける。だからせめて自分が出来ることをやる。些細な事でいいはずなのに、どうして大きなものを求めてしまうのだろう。周囲のまやかされた「キラキラ」が世間に目立っているからだろうか。

 福祉の網の目から透き通ってしまう私たちは、セルフネグレクトに陥ったとしても、誰からも助けてもらえない。「ただ迷惑な隣人」 として存在するだけとなっている。

 この社会構造を変えることは出来ないだろうか?

 自ら助けを求め、その助けを周囲に広げていく。小さな活動から、私たちは弱いのだから、そうやって協力していく他ない。対話なき場所には偏見と狂乱が満ちている。

 そうした活動をする人間は弱くない。私は弱くないのか、それとももう狂ってしまったのか、日常を続けるという行為は狂気である。明日を必ず迎えることが出来るという自信は現実ではない。

孤独死した40代女性「社会的孤立」が招いた悲劇 | 災害・事件・裁判 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

浴槽で亡くなった場合は、警察が水の張っている風呂の中から、遺体を引き上げる際に、栓を抜いてしまうことが多い。つまり、腐敗した体液が、排水溝にそのまま流れてしまうというわけだ。これが、のちに大問題を引き起こす。

マンションの1階ならまだしも、上層階で孤独死が起こった場合、下層階まで排水管を伝ってその臭いが下の階に漏れ出てしまうのだ。下手をすると、マンション1棟を巻き込むほどの、大騒動が勃発する。

 私たちは浴槽で熟成されたシチューのように不定形だ。透明だった存在は鼻を駄目にする臭いとしてこの社会に現れる。病んだ精神と病んだ社会が生み出した臭気が私たちであり、孤独死は私たちの行きつく救いである。

 孤独にひっそり死んだとしても、処理に数百万円かかる。私たちはどうあっても迷惑を掛けるのだ。だから、その迷惑が小さいうちに何とかしなければならない。仕事でやった失敗を隠し通すことなど出来ない様に、そうやって隠していても結局はどこかで漏れ出て破裂する。時間が経つほどに失敗は呪いへと変わり、手の施しようのない損失が生じる。

 だからこそ、小さなつまづきをフォローできる社会が必要なのだ。

 自助努力と口を酸っぱくしたところで、その最初の突っかかりで崖に落ちないようにしなければこの社会は自己責任にまやかされて駄目な所へ進んでいく。

 孤独死は社会からの孤立、親しい者からの孤立。

 隔絶された個人が至ってしまう<病>である。

 私が実践しようとしたが成功していない孤立しない方法は三つある。

  1.  家庭を持つ
  2.  決まった周期の社会活動に参加
  3.  カウンセリング

 まずは一つ目。

 家庭を持つという行為がある。私の世界観が変わらないのであれば、最初から最後まで、弱い男はパートナーも家庭も得られぬ。男らしさというものが生き物として効率的な選択をしている。だから、間引かれ淘汰されるべき人間が私である。ただし、人間はそうした動物的世界から逸脱している。動物ではあるが、非動物的な世界を作り上げた。だから私のような淘汰されるべき人間でも生きているのである。

 だから、もしかすると孤独死ではないかもしれない。しかし、その可能性はサイコロの同じ目が三連続で出るくらいには小さい。世間にある男性像からは遠く離れ、それは努力が足りないから足りないから、そんな風に扱われる。

 数年前、異性と知り合う機会を意識して作っていたが、結局そのほとんどが一度切りの場だった。大抵、私は切り捨てられる側に存在している。私の対話能力が悪いから、どうやら、あなたに興味があるんです、という意思表示が私は弱いのかもしれない。

 そんな風に思い試行錯誤している内に、つまずいちまった。ただこの辛い人生を協力して乗り切ろうとしたかったのだが、私は自分だけで精一杯だった。これは知らず知らずに打ち込まれた役割としての男が様々な「らしさ」を私に押し付けるからだ。

 男らしく、女を支えなければならない。傅かなければならない。金を稼がなければならない、強くあらねばならない。

 残念ながら、このらしさは私一人の問題ではないから、女が女らしさの解放を時折叫ぶように、男も男らしさの解放を叫ぶ。ただし、それは冷笑を持って聞き流される。前者からも、それを聞いた周りの連中からも。

 フェミニズムを謳う男が男らしさを押し付けているのを見て、私は失笑した。人間は性差から規定される役割からは逃れられない。その役割から離れて生きられるようになったにも関わらず、ずっとそれが残っている。PVを稼ぐ記事やコンテンツもここから生えている。そうして分断を生じさせようとする。

 拗ねてもいいが、そのわがままをただ感情のままに押し通してはいけない。良く考えなければならない。考える場合、SNSは表面的でセンセーショナルな言葉しか目立たない役立たずの拡声器だから、そんな場所で議論など生じ得ない。ただただ感情がぶつかり、弾け、炎上などとしょうもない喚きがそこにある。

 だから、けっきょく。

 私はこれを選ぼうにも選べなかった。

 一つの人間性の喪失である。

 次に二つ目

 また、毎週ある社会活動に参加することも一つだ。ボランティアでも、趣味の活動でも、誰か他者と対話が生じる所を探す。精神状態が良くなく、セルフネグレクトが生じる前に、社会との繋がりを増やしておく。なんでもいい。小説の朗読会でも、朝活でも、勉強会でも。何か居場所となる場所が必要なのだ。

 はじめは上手くいかない。変なやつだとして距離を置かれる。これが辛いのです。最初は会話出来ていたのですが、段々出来なくなって、止めてしまうんです。全員が私を陥れようとしているのではないでしょうか、どうして嫌うんですか。私が悪いんですよね、成長せず、ただここに留まる私が。

 私は沢山の人達と関わるのが苦手なので、ゲームや何かをしながら、というものでなければ上手くいかない。それを分かったうえで活動をしようとしてもまだ上手くいかないのだ。

 社会活動は人間関係なので、必ず嫌な面や面倒なところがある。この障壁が大きいと感じて躊躇してしまう。こんな奴等、こんな連中が、私を知らずに馬鹿にしている。監視している。私を陥れる為に、私をこの社会から排する為に。

 そんな風に、精神のバランスを取れていない状態ではお勧めしない。

 先にも述べたように、小さなつまづきで崖から落ちない様にするために、こうした活動がある。誰かの助けになることをして、感謝をされる。小さいことでもいいんですが、そうした経験がちょっとでもあれば人生の足しになるのだ。

 最後です。

 カウンセリングに行く。

 私もはじめ、しょうもないことで、と少し敷居が高いように思っていた。こんな愚痴かどうか分からないもやもやを、拗ねちまった怒りを、誰かに話して変わるものかと。そうした所で何も変わらないのだから、言っても無駄なんじゃないかって。

 男として考えた場合、その行為に結果を求めがちなので、そう思ってしまうが、ただ吐き出すという行為がつまづきをちょっとしたものに済ます役に立つ。感情はどこかで吐き出さなければならない。呼吸と同じようなものなのだから。

 ただの対話と何が違うのでしょうか?

 とひねくれた私が言い始めた。これを二つ目と分けた理由は、関わる相手がある程度の専門性を身に着けているから。友人や親しい人間、適当な他人に込み入った話をしたり、感情に寄り添ってもらおうとするのは実は難しいです。そこには「らしさ」が氾濫していて、無自覚な押し付けが生じてしまうから、上手くいかないこともある。(また、支えてくれた人がいたので何とかなりました! という話や書籍を見かけるけれど、私たちのように孤立している人間にそれは役に立たない。なぜなら、そんな相手を見つけることも出来ない弱い人間だからだ。)

 私はよく利用している。それなりにコストはかかるけれど、感情に寄り添いながら、少しずつ良い方向に変化させるやり方で、小さなつまずきや精神の痛みをひどくならない形にしてくれる。人にもよるんですが、こうしたものは本当に辛い、ヤバイ、といった状態になる前に行くのが本当に良い。抱えきれずに零れてしまう頃には数か月、数年単位で癒していくしかなくなるから、些細なことでもそうした傾聴してくれる他人にぶつけてしまうのが良い。(勿論、友人などの親しい人でも効果はあるんですが、何度も繰り返せばそれは迷惑だし、同じことばかりで変わらないから相手が離れる要因にもなってしまう。そうすれば更に孤立が深まる危険性が有る。)

 

 私は生来ものぐさなのであまりこうした活動をしないが、そうやってずっと籠った結果を知っている。自傷を始める暴力性を目の前で見ている。

 だからこまめに、こうした社会と繋がる小さい行動をするようにしている。消えてしまいたいこの無能はまだ死ぬ気が無い。波は激しくとも、凪ぎは時折訪れる。

 私の人生はつまづきばかりです。一気に孤立へ追い込まれたことはありません。この社会とは徐々に徐々に孤立していきました。急激な変化ではないので極端な行動に走らなかったのかもしれませんね。

 最後の最後です。

 セルフネグレクトは以下の悪化順序を辿ることが多いです。最初の兆候が出て来たと思った時に「忙しいから」と思うだけでなく、一度立ち止まって溜まっているものを吐き出す。なんでもいいので、こまめに発散する場を設ける。そういった意味で、カウンセリングは役に立つ。というのが私の実感です。
 自身の身の周り、他人の身の周り、細かい所から精神の異常が生じますので。 

  1. まず水場が汚くなる
  2. 次に自炊・掃除がなくなり
  3. ゴミが溜まり始め
  4. 出掛ける気力が消えていく。
  5. 寝床でずっとスマホの画面を見て無為な時間を過ごし、眠るだけ。(私はアルコールが人より分解できないので飲めず、ただ眠るだけです。)

  私は孤独に喘ぐ粗忽者。ここでは長く生きられぬ。

 だからこの記事を残している。弱さの境界に足を踏み入れ、途方もない不安と孤立に飲まれないよう、誰かの参考になればと思いここで文字を並べている。

 記事を書くにあたって下記引用の言葉が身に染みて分かります。
 私は中途半端な弱者として、ぎりぎり大人をやっています。
 だからきっと最後は孤独死。ビニールシート二枚重ねで床に敷いていた方がいいように思っています。

ふとした人生でのつまずきが、一気に本人を孤立へと追い込み、社会から隔絶したまま、孤立、孤独死してしまう。それは、私自身も含めて、誰の身にも起こりうることだ。

孤独死した30代女性の部屋に見た痛ましい現実 | 災害・事件・裁判 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

 今日は長くなってしまいました。

 さようなら。

弱者のための世界3

 無自覚な殺生が私たちの原型にある。

 羽から裂かれたトンボ、踏み潰されたハエトリグモ、暴力を振るう遊びが学生時代に有った。どうして小学生の頃にベンチコート狩りと称していちゃもんを付けられたのだろうか。頸動脈を押えられたとき、私の意識は消え、現れたモザイクは肉体の不自由さを十分に感じた。無意味に、無自覚に私は肩を殴られた時に泣いてしまった。ああ、暴力が私を嫌な所へ押し込めるのだ、と。

 弱者にペットが必要な場合もある。人間の中で上手くいかないから、他の動物と一緒に暮らしてシンプルな関係を築く。餌をやればついて来るから、彼らと生活を共にできるから。

 一番身近に暮らしてきた犬、馬は主にパートナーとして。
 私たちの赤子を狙って狩猟をしてきた猫は同居人として。

 私は同じ場所にいるだけの関係でも良いと思っている。目の良いハエトリグモはこちらを視認する。マウスポインタを獲物と思い飛び掛かる。持久力の無い書肺だから、しばらくすれば息切れして動かなくなる。
 それぞれ、どういった距離感で動物と関わりたいかだとは思う。ただ愛でる、可愛がる。そうした所から私たちは動物と暮らす。

 私は動物に対して責任を感じてしまうから、ぬいぐるみ程度でよい。何かを抱いて眠るとき、柔らかな感触がとりあえずの安心をもたらす。人生は誤魔化せればいい。そうして上下の分断が生じて、弱者として誤魔化されてお為ごかしの溜飲が下げ施策を享受して老いていく。孤独は癒しではない。単に変化が少ないだけの凝り固まった安心感なのだ。

 あまり知られていないのかもしれないが、ペットという表現はコンパニオン・アニマルに変わってきている。変わった所で、私たちが生殺与奪を握っているのは変わりがないが。
 言葉、記号表現が表面的な意味合いを変えればよいかといえばそうでもない。

 ただあるのは生殺与奪が私たちにゆだねられるということだ。
 人間の社会に連れてこられた生き物がそこで自由に生きられる筈がない。

(個人的な意見では、そうした変化をするべきではないという人間の責任は理解しても、その変化ですらもこの自然の摂理であると考える。人間だけが、それを特別な行為として認識する。それらの変化が他の生物を滅ぼそうとも、この地球で人間が生きられなくなろうとも、それが動物のありようなのだから。守ろうとしたものの裏にある犠牲は必然だ。)

 そうやって表面的な言葉に振り回される。他の動物は私たちのために生きているのではない。たまたま同じ場所にいたから、彼らを生かす責任を持とうとするのは非常に重い。SNSで癌になった猫を「最後は自由に過ごしてほしい」と無責任に外に「捨てた」話を見かけた。これは耳触りの良いことを言う犯罪者です。とACのCMに有ったのを思い出した。またはそれも見たのかもしれない。私は主体ではないから。

 自分の得にならないからさようなら。社会のルールからも外れ、生き物に対する責任は恐らく理解できていない。

 それらの発言がフォローされる、支持される。「何」を信じるか、ではなく、「誰」を信じるかばかりが溢れている。私たちは中途半端に弱いから、自身の考えで何も選べないのだ。私たちは決断しない農耕民族、なのだろうか。

 WEB上に溢れる有象無象のご立派な感性の中に正しさを見出すのは危険である。私たちは弱いからその流れに乗る以外ないのだが、せめてその間を流れることは必要に思う。何か一つあれば、それが人生の「攻略法」就職活動の表面的な攻略法とよく似ているが、そんなものは常に存在していない。はたから見えるものは結果である。たまたま適応の施策が上手くいった。運が良かった。この社会のルールに沿っていれば、そうではなく自分の力で成し得たことも確かにあるが、ちょっとしたタイミングの話でもある。

 ビタミンを発見した日本人の功績は、その後に発見された人の功績となった。
 英語で論文が出なかったからである。

 弱者は報われない。誤魔化しが大半だ。

 動物と一緒に暮らそうとも対象喪失は必ず訪れる。犬だろうが、猫だろうが、人だろうが、どうあっても別れなければならない。社会へのBest effortを繰り返していても、虚しさは付きまとうのがこの自我なのである。多くの人間の悲しみが癒えるのは四か月から十二か月掛かる。それ以上かかればカウンセリングなどで「感情の弔い」をする方が良い。しかしながらその機会もまだ気楽に出来る社会とはなっていない。

 どこか特別なものとして認識されていて、そういうことをするのは病気か、それに近い人間だけである。という世界観がこの国にあるように感じる。後は金額の話か。

 弱者だから、弱いところの話は親しい人であっても正しく感情に寄り添ってくれることはない。だから、もっと気楽な形でカウンセリングが出来るようになればいい。かといって、HSPは治せます! みたいなこすいビジネスに数十万は間違っている。弱者は利用される。斯様な連中がのべつ幕なしにこの資本主義に従い、稼ごうと知恵を絞る。人生の価値、意義をそこに置いてしまえば、誰も幸福にはならない。

 私は仕事で堂々巡りや同じ失敗を繰り返して立ち止まり、苦悩することがある。何故、私はこのように他人が出来ていることが出来ない、頭が悪いからだ、この社会で生きる価値が無いからだ。それならこの社会を破壊しなければならない。そうやって何かを起こして病院へ。そうした悪い想像へ落ち込まないようにするには、それはそれ、他人の真似を、感情に寄り添う時に注意しなければならないのは、肯定と否定をしないことだ。感情は環境を変えるための選択機構である。極端なところにある考えに紐づいた感情で何かを選択させてしまうのはとても危険な行為となる。

 先日マン・ダウンという映画を見ていた。そこに出て来たのは精神病の男だ。辛い現実はパパを壊してしまった。キャッチコピーと共に映画の出来としてはエンタメ足り得ないが、辛くなると衝撃を受けると自身のお馴染みの世界から抜け出せなくなる。教育実習の先生は天使を見付けるのだが、全て自分の中にしかない妄想である。しかもそれは終わらない強固な輪となり、人間をある一つの世界観に取り残していく。
 私たちは世界と接続し世界観は常に変化していくが、それがなくなる。個人の領分だけが世界であり、そこから得られるものは「世界」=「世界観」であり、それは接続ではなく一体化であり「灰化した世界」である

 事実は変わらない。感情だけが取り残されていく。
 だからそれらに寄り添ってあげないといけないね。

 私は私の中にその外側を用意しようとしているが、上手くいってはいない。

 生き物に対する責任が持てないのもまた、自分を生かすのに必死な弱者であるからだ。私はそれが怖くなり、このような場所で小さな反抗を、思春期の子供のように繰り返している。

 もう、三十代だというのに。

 私は弱いが、だから生きている。男の子だからな。

偶像崇拝との距離

 私は現実の人間に執着する前に逃げ出した男である。

 孤独にはウジがたかる。

 楽しいことを考える、これが徐々に削られて嫌な所へと向かっていく。

 私がまだ学生だったころ、アイドルの握手会に参加したことがある。理由は特になく、社会経験のために金を払った。友人が勧めるものだから一体何が得られるのだろうと有りもしない私財を少し投じていたのだ。

 特に曲も聞いたことがなく、可愛いかどうかも私の中ではわからない彼女たちとの距離を考えていた。

 なんのために、ここに来たのですか。

 その少しヒヤッとした手の感触と、こんな接客は大変だろうなと思いながらも私はあのアイドル好きの一人としてそこにいたのである。外側の行動だけが人間性である。内側の思考は人間ではない。

 それだからか、投げ銭はよくわからないのだ。その人に覚えてもらったから、嬉しい。というのは、予めご了承くださいの中に別の何かを見出そうとする傲慢さに他ならない。その個体に執着出来ることが私にはわからないのだ。

 そこに打ち出された文字列が何を意味するか、それは行動ではなく、思考である。

 妄想である。

 しかし、そこに並ぶ金額の数々は私たちがまだある程度裕福であることを示す。世の中にあるパトロンサービスを見ているとそう思う。

 そうしたアホらしさが世の中の余裕を示し、それすらも無くなれば後は暴力だけである。

 ∴私は人間ではない。

 しかしながら応援したい、という意思があって一度だけ投げ銭をしたことはある。アバターを被った中年男性がドヤ街暮らしのお姉さんを演じているものだから、これはいくらか出すのも良いと思った。

 忘れ去られようとする最中の懐かしみがそこにあったが、私は底を知らない。

 退屈なお喋りとゲームと、それが嬉しい。

 コンテンツとして面白くしようという意図が伝わるものは見れたのだが、それ以外は粘土をぶつけられたに等しい。(粘土がお好きならふわっちでも見ていればよく分かる。私も粘土である。)

 それらは私の拠り所でも癒しでの楽しみでもなかった。ただただ妄想すること、空想することが私の拠り所と出来たのはそうした見えないものの中でしか無かった。

 それだからか、離人感は強く自分が起きているのか私は分からなくなった。確かに仕事はしていたのだが、終わった時には何も残っていなかった。その機能を果たすための器官があり、それが稼働を止めれば私は現実の妄想の人間として酩酊を始める。

 例えば、自分で自分の機嫌を取る必要がある。拗ねて女叩きを始める男が喚く。私はその言葉をよく知っている。その思考回路をよく知っている。いいかい、そいつは駄々をこねて注目されたいだけなんだ。そっとしておいてあげよう。ゾッとする結果になるぜ。

 ワザと女にだけぶつかる人も恐らく似たような思考を始めている。気をつけなければならない。弱者はソシオパスの道へ繋がっている。

 しかしながら、この人間とアイドルに握手を求める人間と3Dモデルへの投げ銭する人間には似たようなところがある。

 全て女に対する偶像崇拝である。暴力性を発露させようとも、資本を投じようともそこに個人を見ない。わたしとあなたがないのだ。

 それが分かる例を示すとするならば、campfireで外国留学に行きたい人を調べてみればよい。知らぬ他人がリターンに直筆の手紙を送るといい、それに賛同するのは僅か数名。そこに沢山の金が集まることはない。そこには個人しかない。勿論得られるものが少ないし、見知らぬ他人の人生に関係のない夢ほど遠いものはない。

 私たちが金を出す時、キャラクターだけがそこにある。売り渡され、資本化された自我がある。(私が労働する時に働かせる器官もそれと似ている。)様々な見てわかりやすいものだけがその価値なのだ。溢れんばかりの情報に私たちは考えるのをやめた。ただ判断するだけで、それは思考にならない自動的なものとして「わかりやすさ」だけが残っていった。

 それだからセンセーショナルな嘘があり、絵があり、多様性の嘘を喚き難癖が付く。そうやって一部のなんでもない世界は回っている。宇都宮餃子のミスリードを狙った政治家の発言は、結局そこだけで終わった。

 行き着くところは原始に存在していた。神の子を孕む太陽の巫女である。その時代のプリミティブな形と妄想すること。

 そこに酩酊する。これらは社会に強く接続されているが、私の酩酊は弱い接続だった。頭の中にしかないから。

 だからこそ、私は性にも淡白である。殊更他者との接続はなく、性風俗といったものは苦痛にしかならないのである。だから友人知人他人多くのものが抱く性欲は理解出来ても、それが見ず知らずの淫売に向くことはない。頭の中にしか私の世界はなく、外側は肉体の生存の為だけにある。親しい者との対話は良いものだと知っていてもなお、私はその内側から出て来れないのだ。

 私は弱い。現実を把持する能力が低いものだから、現実では最も容易く他者に流される。それをキャラクターにやって、その裏にいる現実の人間を困らせるのが偶像崇拝の連中なのだが、それを理解したうえで楽しむものが大多数だ。現実とのバランス感に気をつけていればこれらの行動は忌避されるものではない。

 しかしながら、それを利用する者どもに気をつけなければ。それが出来ないから弱いのだが、気を付けなければ。ガスライティングを疑うなよ、余程のことがなければそれは精神病の症状である。

 世界は全くもって不条理に浮かび、個人は常に無関心に接続されている。

 だからこそ崇拝が必要だ。

 神の女となり、子を成そうと考えたシュレーバーも、太陽に焼かれることを望む私も、薬物の酩酊の中で生きたバロウズも、何者もその接続から逃れられないのだ。

弱者のための世界2

 肝心なことを忘れていた。私たちが定義する「弱者」についてだ。

 本当に弱者とされる人たちと、これまで示した弱者は異なる。当たり前だが、意味合いはソフトなものになる。私はどこまでも卑劣であるから、そういったことを忘れる。ジャックナイフを頭に突き立てろ、それ以外に法はない。

 普通の社会生活を送る中で脱落してしまう人たち。またはその境界。

 こうした人たちはWEB上でHSPや発達障害テストをやって留飲を下げている。本当に苦しんでいる人たちに対して、やはり卑劣な人間である。もちろん私を含めてだ。

 全て中途半端なのだ。どこへ行こうとも、普通より少し劣っている。しかし、社会生活を送るには何とかやれている。愚痴や恨み節に塗れ、日常に発狂する。これまで上げて来た団体や連中もおおよそそういった人たちだろう。ただただ留飲を下げれば世は並べて事も無し。そうやって誤魔化して上下の格差は開いていく。かつての自由の国は、果たして自由だろうか。

 そも、自由を望んでいる人間など本当に存在しているのだろうか?

 私にはそう感じられない。そこには用意されているフレームがある。なあ、そこへ入れば自由なのかい? はは、こりゃいいや。なんだって用意されてらあ。

 お望みなら、この社会と酩酊をお渡ししますよ。

 だから弱者なのである。新自由主義がこの活動を加速させる。私たちは弱いから、様々なものにたぶらかされる。それは甘言めいて私たちの居場所を設ける。社会から孤独になった人間の行く先は極端な思想である。ここで話題にする弱者はそうした所へ落ちるか落ちないか、そうしたキワにいる。

 そうした人たちで協力できるかと言われれば、それも出来ない。徒党を組んだ所でそれは結びつきが強くはないのだ。誰かの考えを借り物にして積み上げられる自我、アイデンティティは勿論紛い物だ。そうした軽さがあるからやはり割を食う。

 糞の中で糞を喚く。それを喰って喜ぶ。

 人間とは食糞漢である。それに気付かずに匂いと色を偽装した糞を喰らって喜ぶ。勿論私も、これを読んだ人も変わらない。だが、それに反発する必要もない。この世界観と接続したところでそれは弱い。ニュートリノの観測ほどに姿は見えない。

 私は自身の短絡的な思考を恥じているからだ。すぐにそれは見て取れる。野菜しか食わないと決めて肉を喰う私を罰した。いいえ、それは罰したのではなくてパフォーマンスね、静かに寝てて頂戴。私は弱いのだ。意思が弱く、内奥の幾つかのキャラクターが語り始める。口々に叫ぶ様はただただこの現実世界からの逃走である。

 弱さとは逃避である。動物らしさとは逃避である。

 弱き人たちがどうしてもここから逃げ出せないのであれば、それはこの社会の欠陥である。この社会が人間をよりよくすることなど出来ないと匙を投げるのである。民主党から共和党を馬鹿にしている。N国に連なる。暴力革命を支持する。

 ああすべてがくそったれのなかで悲観することすら単なる自己恍惚に過ぎない。自我を破壊しなければならない。私の世界観はどこからも離れた接続を求めている。かのようなパーソナリティが社会にすり減り、かつての友人たちとの決定的な溝を描き出す。

 弱者を利用するのは簡単だ。適当に私たちに耳触りのいい言葉で実現できそうなことを語ればいい。選挙で五万円配布するといった候補者が選ばれてみれば難色を示す。民主党政権が発足した瞬間に喜んでいたのは誰だったろうか。

 私たちではなかったか?

 私たちが容易く利用されたのではなかったか?

 私たちが選ぶ多くの物事が何かによって間違った方へ進み始める。これは民主主義の敗北である。針の穴を通すような難しさがあるのが民主主義だ。「国民」に話題をすり替える人間、さもこちら側の人間だと思わせる連中。そういったものは数限りない。人間の歴史が始まった時から、おそらくずっとそうである。

 目に見えない弱者は、この社会に多く存在する。

 私たちは進んで盲になり、この轡を嵌めて涎を流すばかりだ。

 努力も出来ない人間はこの社会に必要ない。出来ることはなんだ、お前の価値はなんだ、私は何者だ、この世界にどんな意味がある。

 問われ続ける社会は、弱者には優しくない。しかし、今を手放すことのできる思想が私にはない。

 BIがそれを実現するかに思えたが、それはまだ分からない。

 結局、膨大な距離を付けた格差が、BIによって誤魔化されて私たちが生存するだけなのかもしれない。その差を決定付けるために、そこ以外に行けないように、一つの場所に縛り付けられる。この軽々しい自由を手に、私たちはそれを弱者の世界として受け入れなければならないのだろうか。

 ・・・ある一つの価値観がこの世界の自由である。

 そこに根差したこの意識はタワゴトだろうか。ただ、拗ねちまってる。

 大言壮語に過ぎた文章の連なりはいかなる世界をも描き得ない。語られた言葉を引用するだけのスポークスマンである。

 緩やかな奴隷として私たちは縛り付けられるより他ないのだろうか?

弱者のための世界

 生き物の原理から言えばそれはあり得ない。何か頭を使って生き延びる策がなければ私たちはずっと嫌な所に閉じ込められ、そのまま死ぬまで生かされる。努力を、競争を、私たちはずっとこの閉じた輪の中に存在している。

 私はこの社会の中で軽蔑と嫌悪を受ける透明な人間である。無能を排するやり方は簡単である。コミュニティの中でいない者として扱うか、邪険にしておけば勝手に病んで消えていく。被害妄想と学習性無力感により、私は頭が鈍くなっていくを感じた。

 この社会が私を抹消しようとしている。このシステムが私を異物として自死させようとしているのだ。この世界が私のような人間へ天啓を与えるために苦難を与える。苦しみにまみれた人生を苦しみながら消えて行けと、その先には何もない。

 天国など、地獄など、私たちの幻想的物語の前には存在しなかったのだから。妄想と現実の区別はまだついている。私は精神病ではない。単に神というもの、そこに至る妄想を考えているだけなのだ。仏教的な現実感を持った教えがこの社会で生きるには役立つ。そこから研究をしなければならない。(今、何も手に付かない人間がそれを可能と言えるのだろうか、休日の倦怠感が酷く自涜と映画をぼんやりと繰り返しているというのに? そんな私に仏教の思想を学習する時間があるのだろうか。)

 私はこの人生を精一杯、苦しみが多くとも笑って生きていたいのです。

 沢山努力が出来ない人でも、頭が上手く働かせられない人でも、短絡的な人でも、誰でも、出来る限り苦しみが少ない人生が送れるような政策の実現が望まれるが、結局「そのお金はどこから出て来るんですか?」という問題から私たちは抜け出せない。

 理想論と結論だけが暴走しているアニマルライツと同じだ。私たちもこの社会でストレスを浴びて上を向いて努力し続けるという狂気を送っている。人間さんがかわいそう! などとこの団体は言ってくれない。かわいそうだから援助して生かしてあげよう! とはならないのだ。無償のものはこの社会にほとんどない。

 動物さんがかわいそう! という驕りは大人になれば分かるはずだ。まさに「人の気も知らずに勝手なことばかり言いやがって」だ。今生きている全ての動物たちの生活を守りたいのであれば、人間が管理する必要がある。生き物たちを知る必要がある。

 身近な生き物としてジョロウグモがいる。こいつは夏から秋ごろにかけて見かけるクモで、糸は黄色っぽく、体長も25mm程度ある。♂はその半分以下。最近は寒くなる12月でも生きている個体をよく見かける。彼らの巣は大きく大雑把なので、よく邪魔になる。彼らの生きるための巣を破壊しても、動物さんがかわいそう! なのだろうか。良く知る動物だけ、感情があるなどと神経のこぶの大きさで生き物を区分けする。

 おかしくはないだろうか。私たちの体には沢山の生物が共生している。ダニは無数に部屋の中で有機物を処理し、ハエトリグモがコバエを捕まえる。カメムシが暖かい部屋の中に入ってくる。嫌なにおいを出す。こうした動物がかわいそうなどと思うだろうか。(わたしは出来るだけこうした生き物を殺傷しないよう外に出してやる。殺さずとも生きていけるからだ。)

 弱肉強食とは生き物の環境最適化である。動物たちの世界では、絶滅か生か、生きるためだから仕方がない。人間たちが沢山の物事を知り、今いる動物を保護できるようになったから、今のような絶滅危惧種を守ろうということも出来るようになった。これもSDGsの一つだろうか。

 その活動のために動物にも協力してもらう。そうしなければ私たちの社会は回らないから。理想の実現のために、出来ることをやる。というのがこの社会である。

 熊の駆除に文句を言う人間も想像力が足りない。人間であることに驕っている。

 私は駆除される人間である。間違ってここにやって来た。社会との摩擦が適応不良を起こしている。

 弱者のために割を食う人たちがいるから、弱者などは最低限の暮らしが出来ている今をそう否定することはない。

 私たちは社会の加速に耐えられないからいなくなるのでしょうか。強い熱意と頑張れる力は「なんとかしなければ」と改善を生み、生き残る人達の持ち物だ。

 それが小さくとも変えられる。人間の力なのではあるが、私のように何もない人間もそれなりにいるのも事実だろう。

 それでは、私たちのような人間がどのように生き抜けばいいのか。

 社会制度をめいいっぱい利用する。ストレスがすくない仕事を探し労働をする。

 それでも、生きられない。

 ギリギリの生活をしなければならない。

 一つ。

 欲を小さくすること。そうすれば弱くとも生きていける。

 私はそれをこれから実践していかなければならない。

やはり私は逃れられない

 無能である。私はこれまで一度も仕事をしてこなかった。

 定義:計画の無い業務は仕事に非ず。

 だから私は無能である。この社会で適応できずに淘汰されるべき人間だ。どうして生かされているのか、どうして生かしてくださるのですか、明日には消えてしまいたいと願い、この世界から人類が消えてなくなって欲しいと毎夜お願いしているというのに。

 こんな人非人をここに置いておかないでください。

 どうして太陽は私を焼かないのですか。

 私にこんな人生はあまりにも重荷。辛いから、苦しいから生きなければならぬ。私にはそれが出来ない。ここから堕落を始める。日雇いの浮浪者にまで落ちるか、精神病で障碍者に成り果てるか、私は狂っていない。この社会が狂っているのだから、それら全ては適応して狂えない私の責任である。誰かに生かされたくないのだから、死ななければならない。

 しかし、その勇気をくれる人間はいない。

 疲れたら帰って、それでどうするというのか。

 私が誰かと繋がれるのは、ささやかな自身の作品以外にはない。計画もなく、ずさんな人間だから、この糞みたいな脳とただただ悲嘆にくれるだけの阿呆でありたい。私は亡霊である。この社会には存在していない。誰からも何も期待されてはいないのだから、殺してくれはしないだろうか。

 この社会での救いは死ぬこと以外にない。

 信仰が死によって成就されるように、私も太陽に乞うた救いもやはり死ななければ得られることはない。こんな霊長類であることが我慢ならないのだ。

 短絡的なソシオパスか精神異常者となる前に私は私を殺し切らなければならない。これは社会の生などでは決してない。この生が適応できなかった、この個体は必要なかった。私が死のうとも、無数に人間どもは存在する。

 消えろと絶滅を願った所で、それを実現する具体案:自死、意外に在り得ぬ。

 私は一介の人間、七十億分の一の塵芥に過ぎない。だから消えた所で人類は絶滅はしないし、自己主張の世界だけが広がる。

 そうして自己の世界に入り込み、ずっとそこから出て来なくなった。

 どうかここから出さないでください。人間をやるには私は弱すぎるのです。人間として狂うには覚悟がないのです。

 蛆として踏み潰される。

 なんら具体的な物事は私の中にはなく、ただ通り過ぎるだけでぼやけている。

 私はこの世界でぼやけて存在している。何も考えをまとめることが出来ない。論理的に物事を進めることが出来ない。何が必要か説明することも出来ない。

 感情は抑えなければ。短絡的な行動は私の死を遠くにやってしまう。

 どこへも行けず。

 誰とも関わらず。

 自身の価値を見失う。

 お願いですから、早く殺してください。

 もう何をしてもこの先は敗戦処理なのだから、薬漬けでもなんでもいいから、この自我を消してください。

 これは自殺願望だろう。

 病んだ社会のこの人間という猿どもと、その一部であることが我慢ならないのだ。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火