Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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 トランプを支持 = 白人至上主義 ∴バイデンを選ぶ。

 人間に多様性は扱いきれない。社会性は細々とした同士を作り、そこから外れた者達を攻撃、対立、反発しては自身の社会を拡大させる生き物なのだから。概念を広げれば私達は人間という種として協調して生きていく。そんなことが出来るのならばその例を示さなければならないが、この社会ではそれは実現していない。

 差別は単一国家であれば大きな問題として取り上げられることは少ない。容姿年齢性自認病気障害、起きるとすればそれが要因だ。人種という広い範囲ではない。

 近代の人種差別はアメリカに端を発する。黒人差別は大きく取り沙汰されるが、アジア人に向けての差別は大きな活動とならない。黄禍説。そもそも認めようとしなかった事実もある。学生時代、私は知らなかったが、中国を脅威に感じたが故に彼らを排除しようとする動きが昔有った。そうしてまたコロナ禍によって(一部の事実を見ようとしない者達による)アジア人に差別が引き起こされる。多くは無知による偏見、学ばなくとも学びはある。それさ社会を通して得られた経験だ。それを自信満々にひけらかす。上記の発言の動画をSNSで見かけた。誰かがああ言っているから正しい、関連の無い物事をあたかも関連があるように振舞わせ、屁理屈しか言えないのを呆れて離れれば、逃げたそっちが負け。人間は十代から死ぬまでほとんど変わっちゃいない。何かを学ぼうと対立すれば同じようなものだ。

 短絡で間違いと分かる社会活動の数々に辟易しているが、そこから出来得る限り多様な幸せを実現するのは可能だろうか。2歳児を肘内するような男が、子供を虐待するような親が、そうならないようにするのは無理な相談だろうか。

 多様性とは名ばかりの欠陥。建前上はルールを打ち立てることで可能だ。しかし、そうやって人間の居場所を窮屈にすることが多様性なのだろうか。持続可能な社会なのだろうか。(増え続ける人間は地球のキャパシティーを越えてしまうが、そうやって荒廃するのも自然の摂理である。生き物が全て滅ぼうが地球は太陽の爆発までそこにある。保護しようが、保護しまいが、それはエゴである。)

 150年。国が出来て200年あまりの国家はそのほとんどが差別と征服と、自由を勝ち取れ。ただただインディアンは殺され、アボリジニは砂漠へ追いやられ、アタワルパは御輿から落とされる。

 歴史は語っていた。暴力装置を改造しなければ。先日ロシアで70人ほどが撃ち殺された事件の映像を見ていた。散弾銃で砕かれた脳、逃げられず背中に撃ち込まれて斃れる命。細長い男が弾を込め、淡々と殺しゆく様、虐殺が組み込まれた私たちの種。だからルールが無ければ私達は多様性を担保できない。

 駄目だがやらなければならない。

 それなりな努力では崖の縁に手をかけるだけである。

 やる必要があるのは、生活を続けるため、老いに殺されないため。年老いれば思考は短縮化する。①〜⑩の手順があれば①の次は⑤や⑩が選ばれる。
 それが悪いとは言わないが、ショートカットするほど方向性は決められてしまう。確たるものは接続だけである。世界観は代謝を続ける。社会で生き、繰り返し体験してきた物事が強化され、短縮する。人間は楽をしたい生き物だ。この社会に横たわる無数の重ね合わせがとても厄介で全ての人間が是とする社会は未だに実現していない。自我がある限り実現しないのかもしれない。

 私はこのように地下室の散文で発狂している。

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 心臓が捧げられたのだから

 もう書くことはないんじゃない?

 そうは思っても私は文章の亡者である。仕事も出来ず、何ら価値のあるものを生み出せず、このような文章を書くことだけに特化した人間だ。会社では何を言っているか分からないと言われ、何をしたいのか分からないと言われ、私は価値ある人間ではない。しかしながら文章を汲むことだけは一人前に出来る。もしかすれば妄想症の意味不明を連ねているだけかもしれないが、誰も見ていないのだから一人前だ。

 人間が作り上げる世界観という構造が重ね合わされるだけで、それを媒する接続子が何かまだ書いていなかったので、私は書かなければならない。死が世界を覆う前に。

 接続子とは人間達の世界観を重ね合わせる為にあるもの、私達が様々な行動や言動に指向性を持たせる状態を生じさせるものだ。具体例を挙げれば数学や物理の領域は私たちの界観、構造を接続する。地面に物が落ちる、風が吹く、数式は数式以上の答えを持たない。マウントを取り合う、所属が異なる者を排除する、種の特性からやってくるもの、これも接続子である。その中で一番強力な接続子が私が今このように綴っている文字である。様々な概念を小さな情報量にまとめ、そこに並ぶ文字は概念の指向性を形作る。文字は人間だけが持つ特異な接続子である。(この地球上においては)残念ながらクオリアが存在する為に、私達の世界観は完全な接続を行えない。また、学問の細かいところへ入っていけば観測によって得られるがためにそれらは極めて接続子的な振る舞いをするが、重ね合わせである。とも表現出来なくもない。今回はその話はせず、接続子として扱う。
 一方重ね合わせは人間が言語による抽象化、概念化を総合して作り上げた世界観、この概念の近似が重ね合わせの状態を生み出す。人間がグレーな存在であるのは、そこから出てきたから。接続子は重ね合わせの世界観と非常に近接しており、ともすれば同様の意味にも取られるかもしれない。しかし、接続子はそれ以上でもそれ以下でもない。ただ接続されるためだけにあるのだから、それらは綜合されないし、それらが組み上がって世界観が形作られるわけではない。あくまで、世界との接続により世界観を生み出すのは人間だからだ。接続されたものから世界を汲み取り、世界観を構造代謝<または腐敗>により作り上げる。未完成の王国が人間の正体であり、人間は完成されない。構造代謝のプロセスが完成させられたとしても、人間は未完成の王国を背負い、そして完成を夢見るままに待ち至る。皆それが完成に至ることはないと知っている。

 構造は代謝される。個人が作り上げた世界観は、例えばタトゥーを入れた人は一般人でないとか、バズったら宣伝、といった行動や思考を生む。反応が生き物であるので、常に他者から、マスコミュニケーションから更新され続ける。世界観が更新される。構造が代謝<または腐敗>される。ここを見落としてはならない。ただ唯一これだけを信じていればいい。これは構造が滞留し腐敗に至る原因である。かつての共産主義、かつての宗教戦争、野球、サッカー、運動会の大縄跳びに至るまで、ただ一つを信じる遊びは蔓延る。それが社会性だから、一つの指向性を持たせられれば人間はそこへなだれ込む。狭き門より入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。SNSにより構造腐敗を引き起こしている部分と代謝が起きている部分、注意しなければならないのはここだ。イデオロギーは道具だが、それらを全て資本主義に割り当てる。それだけでは辛さや間違いを生む。全て生きるために必死にならなければならない、障害があれば生きられない時代に比べてよくなったが、穏やかに生きるにはまだ時間がかかる。また、自身が沢山の称賛を得るという妄想が得られるが故に自己顕示欲にまみれた過剰な表現や妄想を現実のように語り自らの構造を腐敗させる。

 共有される理論、機械的な部分が接続であるのなら、機械が模倣した自我は何者か?

 無意識に享受される死
 哲学的ゾンビ

 機械との接続か、反応そのものを接続しなければならない。意識とは何か、意識はどのタイミングで現れるか、無数の選択問題を解けば良いか、その間に意識の働きが生ずるのか、単なる設計変数を定め、外側からは選択による意識を見たところで人間には判断が付かない。無数の変数を設定して、人間のような行動を取る。そこに意識があるのだとすれば、副次的なものが意識となる。何か意識の中枢器官があるわけでもなく、継続的生存の為の選択が行われる中から生じるもの、現象の一つ。私は前頭葉の衰えを感じ、感情を抑える働きが以前よりも弱まっているのを観察した。
 体を何処かにぶつけた時に沸く怒り、叫び、恫喝、これを発すると決めた私が意識である。0.1秒前には決められていた行動、①体表のセンサーより伝わった情報により②脳と神経のコブが働き、③外側の四肢が動き口が開き鼻腔は膨らむ。④結果、怒りという感情が観察可能な形で生ずる。意識は①により選択される全ての綜合である。①と②の狭間に存在する流れであり、量子的振る舞いであり、それらの現象を意識と呼ぶ。電子が媒介し、そこに現れる。
 私達が普段観察できるのは①と③である。これまでの経験から類推の可能性を生み出し、受けたものと反応がわかる。
 そうやって、人間は他者の自我を類推する。意識を想像する。そこに生じる接続こそが元型でもある。

接続

 私たちの構造は接続により代謝または腐敗する。繋がる行為が構造を作る。妄想の中で自身の神性を確信し、世界観の重ね合わせが消えつつある者、分裂者であっても世界との接続を土台にしてそれを作る。(尻から太陽光線をきらめかせるように、私の太陽礼賛や、自らを太陽神の生まれ変わりと信じる者、キリストの生まれ変わりと信じてやまない病室の男、環境兵器の存在を実しやかに信じてい陰謀論愛好家、これらの人間は他者との世界観から遠く離れたように感じられる。しかし、太陽はそこにあり、神は形骸化した形態として続き、台風や地震は皆が観測出来る事象である。それらが世界との接続なしには得られないものであることは自明である。)
 ここで一つの疑問が提示される。私たちが生きる社会の仕組みは、構造代謝により現在の形がスタンダードとなった。この資本経済は、人間を日々の労働から解放し、週間、月間、年間単位で労働と稼ぎが担保されている。(Uber eatsなど、日雇いの利便性、価値の見直しは生じているが、安定と余暇による思考、活動がしっかりと出来るのは休暇や給与が約束されているからで、そこから離れれば途端に不安に襲われる。しかしながら怖がりな人類は子供の学費、老後の資金、結局死ぬまで資本が失われるのを恐れ続ける。だからといって反動的なマルクス主義に落ち込み、それが正しさを持つのは間違っている。頭をすげ替えたところで人間は個人の利を最大化する哀れな生き物なのだから、機械的な理想を謳う世界観は人間には出来ない相談だ。)だからこそ資本を稼げる者から税を取り、弱い人間も救われるようになり、ベストとは言えないが、それなりに代謝している。
 しかし、この代謝は本当に腐敗を起こしてはいないのか。ちゃちな金稼ぎや射幸心を煽るだけのロクでもないビジネス、至る所に見られるこれらは代謝の裏で必ず生じる腐敗だが、それが完全な社会の腐敗を引き起こすことはない。
 だから私は一つ個人に目を落として考える。

「資本化される自我の接続は構造代謝であるのか?」

 バズる、世界観の薄く分かり易い重ね合わせは、広告として機能する。世に蔓延るインフルエンサーをハブとして個人が資本化される。金を生む、こうした行為が代謝を続けた先にたちは豊かになるのか? それは腐敗か? イデオロギーや主義は接続である。それは神でも是でもない。私たちが接続され重ね合わされる世界観はただの構造であり、そこに確実なものなどない。接続だけが確実にあり、変化することはない。変化は構造に生じる。
 ただ唯一の資本化こそが是とされる社会(とは言っても資本は増大させたいのが人間のサガだ)は病んでいるのは間違いない。人間は社会性を持ち、その指向性で安心するが、その過剰適応は構造腐敗である。他の目線から社会を見て、人間として生きなければならない。しかし、それがなければ私のような弱者は踏み潰され、成人するまで生きちゃおれまい。
 このまま続ければ死ぬ瞬間まで労働者として生き、老人になろうが死ぬまで労働である。人間は楽にならない。死んでいた者が生きながらえても辛いだけだ、それを無能と笑う。
 死なないために資本化の波に乗る。すると現れるのは、歳を取っても幼稚な人種差別的発言や他者のからかいで金を生んだYouTuberである。彼らはそのように自身をコンテンツ化、資本化することで金を稼ぐ。そのキャラクターから降りることも出来ずにそれを続けるしかない。最早それでしか稼げない。自己は自我は資本化されている。稼ぐことと自分であることが一致する。その構造から去ることは出来ない。代謝が腐敗に反転する瞬間が何れやって来る。

 金は虚像でしかない。手段に溺れ、構造は腐敗した。
 それが無ければ生きられないが、多少それがあったとして、人間は豊かにならない。しかし金を稼げなければその機会すら限定的になる。
 そこで先に上げたyoutubeなどの手段で金を得ようと誰かの真似をする。

 資本的経済活動によって方向性を固着された私達の接続は腐る。加速主義によってシンギュラリティが生じたとしても、この活動の強化と方向性の固着は人間:意識という現象、これらが1-0の性質ではなく移り変わるものであり、その代謝は構造を保つために確たる方向性を持たない。(方向性を持つのは接続である。)単一の方向に偏った社会、世界はしばしばディストピアとして描かれる。身分証明書を売り払った中国の貧困層はほとんどの活動を制限される。自由と責任が上手く負えない為にポリティカル・コレクトネスは腐敗している。どうあっても様々な特性持つ人間を平等の意識で扱うことは出来ない。だからルールを作る。

 参考までに下記を引用する。

アカデミー賞、作品賞の選定に新たな基準を導入 キャストやスタッフにマイノリティ起用を求める(ELLE ONLINE) - Yahoo!ニュース

基準を見るとわかるように作品のストーリーだけでなくキャスト、スタッフ、さらに宣伝や配給、資金の調達に至るまで映画作りのすべてのフェーズに人種的/民族的マイノリティ、女性、LGBTQ+、身体に障害を持つ人が関わることが求められている。またこれらのマイノリティをインターンシップや有給の実習生として採用し、将来的な雇用のチャンスも提供するよう求めている。

 ビジネスとして、マイノリティが不利益にならないような活動。これは当然進められるべきで、全ての人間に全ての機会は与えられる必要がある。

 この評価の在り方のお陰で日の目を見る人はいる。しかしながら、ただのポジショントークで利益を引っ張ってきているに過ぎない活動が目立っているように感じる。グレタちゃんなどの活動や一部のアイヌ民族の活動をみている限り、それらは組織的で利権の匂いがある。そんなもので機会の平等が得られるとは思えないし、歴史や環境を守ろうとしても結局それが強権的に是として行われる形は歪みを生む。果たして、作品にマイノリティが関わるのが必然なのだろうか。人間が平等の意識を持てないから、ルールを作って、それによって構造が代謝され平等に近づくことが出来る。そうした形態から入る西洋的な思想にも思える。神の教え。

 作品を作りたい人が作る。面白いと思ったものを世に出す。過度に差別的な表現や露悪的な表現があればそれを無くせ。まるで人間は綺麗な絵空事の存在として空想される。現実には地を這い、世界すら理解することも能わず、確たるものが無い中で代謝させなければならない人間が、理想を間違った形で社会に押し付けている気がしてならない。そしてそれを評価する、それが価値あるものとして構造が代謝される。

 面白い作品を作れなくなってきているから、そうした付加価値を付けようとしているのだろうか。

 (常に希死念慮が募る)

 私は間違っているが、世間はもっと間違っている。

 良い悪いをはっきりと決める。これが社会のルールだからと決められたもの。この流れに疑問を呈し、行き過ぎた活動とならない様にしなければいけないと私は考える。だから自身が正しいと思ったことをやる。接続される世界観、構造を腐敗させてはならない。私は自身の構造を破壊する。

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 萎びたキュウリを齧り、青臭いウリの大地が広がる。

 スイカもニガウリもきゅうりメロンも同じだ。

 私はどうあってもあの引き込まれるような妄想から逃れられないので数年後の浮浪者は確約されたようなものだった。

 そんなことはない。「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせて見たりしてはどうですか。打ち消そうとしても、かき消されてしまうので手強い。何を言ってもその重力は強まるばかりで生きていくのが難しくなりつつある。

 まだ体は動く。文章が書ける。しかし、私はビジネスパーソンとして、技術者として、どうやら上手く生きられそうにない。

 気持ち悪く歳をとった私のような人間は大人ではない。

 死ねないから生きているのだ。

 間違いだらけの人生なら、嫌だと思ったことへ邁進すれば間違わないか?

 その考えすらも間違うのである。嘘つきのパラドックスと似たようなもので、必ず嘘をつくのだからそれは真実である。二律背反に落ち込む。

 言えるのは、死を望む私の思考も間違いである。間違わない道などあるだろうか、自身の世界観と社会システムが上手く噛み合った。私は目が粗く摩耗しながら回転していた。

 誰もが辛いのだから、という呪い。

 同じことだから、問題はあなたにある。クソ喰らえの思考。この社会が生み出した合理性は人間をフルイに掛けて残された者は捨てられた。

 単純労働の悪夢が続く。私はそうでもしないと生きられない。くだ巻いて文句を垂れ流し、それだけ。

 誰かが慕ってくれるから、いいえ。ただ苛烈に孤独を腐らせた人間である。人間の只中に於いて私はそのどちら側にもいないのであった。

 何者でもないが、それは糞袋と変わらぬ。誰かと関わる努力をしましたか?

 しませんよね?

 そうなのです。努力もなく喚いておるのです。

 何もしていないから悪夢に生きているのです。

「この際誰でもいいからさ」

「何を言っているのか」

 言い返したところで、あの冷笑、あの大将ごっこ、それがこの人生の総体である。総合体育大会、略して総体。ビジネスの皮を被ってやる総体は楽しいな?


 例えば浮ついた話のあれやこれやは私に一時たりともなかった。

 ⇒誰かと関わる努力をしましたか?

 例えば就職に際して私は単なる運のよさだけでこれまで生きてきた

 ⇒何か成果を残しましたか?

 例えば学校生活において私はあまり他人と仲良く出来なかった。

 ⇒会話のきっかけを作りましたか?

 例えば同人即売会私は薄笑いを浮かべパイプ椅子に座っていた。

 ⇒誰かと関わる努力をしましたか?

 ⇒しましたか?

 ⇒しましたか?

 ⇒しましたか? 

 ⇒⇒⇒⇒しませんよね?

 いつでも後ろ指を刺され。私に残っているものは何もない。この繰り返される散文だけが私である。その現象は私ではないが、それだが私なのである。存在の軽さに耐えられぬ。理想に据えた存在の重さに耐えられぬ。浮気者のしょうもない恋愛劇と地獄愛は構造的に似ている。

 浮気。

 そもそも誰かへの愛情を与えることもなく、また与えられることもなく、私は色恋の何一つ知らない。そこに渡された亀裂は修復不可能なまでに広がり、無限に落ち続ける。昼寝の最中に落ちるように慌てて目を開くもまだ落下している。

 私の年齢を考慮すればそれは異様なことだ。そこで培ったコンプレックスは酷く歪な人格を形成した。この自らに湧いてくる殺意と希死念慮もそれが要因の一つなのだ。

「誰かとわかり合う苦労もせず、分かち合うこともなく、隅でいじけてらあ」

 水槽の中で泳ぐ小魚、張り付くコバンザメをつついたところで私がいじけているのは変わらないぜ。

 何もないが、未だに高校生の頃の、

「そういうところが嫌い」

 といったあの女の言葉が繰り返している。

 具体的に何がイヤなのか、私には分からない。話し易そうな人間にばかり話しかけるとか、ズレたユーモアで困惑させるとか、異性から目が離せない意識の気持ち悪さが治らないだとか、さまざまなことが私の内奥で渦巻く。

「あんた拗らせちまったんだよ」

 ご名答! というわけでもないが、私の心臓を捧げよう。

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 確かに声を聞いたが、自己対話が少し浮いただけの話だ。リモコン症は離人感である。夏の暑さに浮かされてそう感じただけの話だ。

 感想はこの世界に溢れていて、妄想ばかりの意味不明な報道機関もあることから、私が人間のいない空間で声を聞いたとしてもそれは異様な世界ではない。百分の一の世界が分裂者としてあるだけだ。

 感想で振り分けられた。合理的な感情が流れ、人間どもの意識はただの反応でしかない。

「事実がどれかの区別はついたかい?」

 それらが囁くのは私をどうにかして破壊しようと試みる為であり、根付いた希死念慮厭世観から生み出される絶滅思想に端を発している。人類など滅ぶ方がいい、こんな生き物を蔓延らせる訳にはいかない。七十億を超えてもなお、増え続け、喚き続け、馬鹿騒ぎばかりが自身が単なる霊長類の枠を越えた何者であると思いあがる生き物。こんな星なのだから、太陽フレアで滅ぶべきなのだ。

 私は太陽を礼賛し、それ以外にないと思いあがる。

 この血と肉を焼き尽くせ。

「キミは幸せではないのだから」

 だからと言ってその囁きが本物かどうか、それはあまり重視されない。分裂は病気ではない。この作り上げられた社会がたまたまそう分類するに至っただけで、それを病気だと声高に叫び、利得である。そうやってどの人間も生きている。虚空の人生を、リアルだと信じて、ただ生きているだけを誇る。

 そこに何も違いはない。多数が異常だと盲信するこの意識は社会という枠に適応しているだけの反応器械でそれが人間の正体である。生殖と適応の権化である。それはあまりに無責任ではないか。私はそうではないが、無責任だ。

 私は私を押し込めるものに反発した。これも単なる反応である。自己を不安の只中で苦しませる。そんな囁きが聞こえている。それすらも否定を始めたニヒリズム、もしくはダダイストか。

 冷笑などではない。熱を持って全てを焼き払う。

 全て自身を破壊する必要性を示す。

 人間は病んでいる。

 病の只中にある。

 私は招かれた死、降り出した雨も、鳴る雨雲も、妄言の中でしか存在しない。


 私にはこの成長を期待され積み上げ続けなければならない社会で窮屈に丸まっている。卓越を示せ、その声が私を殺した。そうしなければ生きられぬこの社会が私を殺した。ただ社会の隅でいじけているだけ、病んだ人間たちは人間を殺さなければ満足しない。間接的私は殺される。この思考が頭を鈍麻させ、成長はない。放り出され、何も出来ず死ぬことを望んでいるだろう、または人間どもとは違い、お前には思考も行動もない。餌食いの鯉として泳げ、しょうもない動物ごっこ私は招かれざる客だった。

 そうして囁かれる声が煩わしく、脳を破壊してしまいたい。もう、私の生きる目標も目的も消えた。元より無かった。私の代わりに生きるべき命が無数に零れ落ち、私の代わりに役割を担う人間が無数に溢れ、私のようなゆったりといい加減にしか生きられない個体に今の仕事を担うのは役者不足である。

 自殺しないこと。人を殺さないこと。犯罪者にならないこと。

 そんな簡単なことすら私は出来そうにない。

 こんな社会でうまく生きられぬのだから。

 その反動は短絡的な犯罪を生み出す。私の脳味噌を引き摺り出し、踏みつぶせ。

 これらの言葉が溢れてそのどれもが他者の理解する価値もない。早くしてくれ、私はこの人生を早く終わらせてしまいたい。

 または、この社会を破壊し尽くさなければいけない。不可能な70億の抹殺を実現しなければ。

 その実現はたった1つの命を終わらせるだけでいい。人間どもを殺す必要はほんの少ししかない。私はこの社会で生きていても辛いだけなのだから、その思考から逃れられないのだから、死ぬより他ない。

 一酸化炭素中毒辺りで手を打とうか。

 最早、ここに一秒たりとも存在していたくない。

 男性の暴力性はこんな所で役に立つ。自殺率が高い理由も今なら実感を伴う。

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 人生とは分からん。ただ働かねばならない。
 私達の価値は大まかに二つだけある。労働力、生産力だ。仕事も出来なければ家庭を持ち、子を成すことも能わない。私の価値はほとんどない。
 労働、製作、活動、それが人間の条件だと言ったのは朧げながら社会学者だったと記憶している。
 私はそのどれも低水準で歩む。能が無いのだからこの社会で生きる人間でないような気がしている。
 私はいい加減な人間である。緻密な仕事が出来ないのだ。その癖余計なことにばかり気を取られる。その度に脳を破壊してしまいたくなるが、私はそこから逃げられない。
 
 思えば自己肯定感は昔からあまり無かった。私には居場所がないから。私のような上げるべき声すら分からぬ人間は死ぬべきなのだ。この社会、全体的な押し付けが存在し、異質なものは排除される。多様性など人間は求めてなどいない。そうした綺麗事で自身の醜さに蓋をして起きるのが差別なのだから、綺麗事を語るなとは言わないが、人間はそれほど立派でも、優れた生き物でないことを知っておくべきだろう。
 Justice stickは飴玉の中に爆薬を仕込んだ。人間は殺人を許容できる生き物だ。他者を非人間化することで易々と人を殺してのける。福岡で少年が女子供を刺し殺す。理由を知るつもりも無いが、面識の無い他人は人間ではない。または、弱いなにか。
 そのような形で人間との距離が広がれば、遠ざかれば、殺人は容易になる。精神的な距離も肉体的な距離も、全て人間の殺し易さに比例する。そうやって同種を殺し、自身の居場所を安全にしようとする。
 他者へ向くか、自身へ向くかの違いはあるが、どちらも殺しには違いない。社会との距離や繋がりが適度に保たれていないと、結局そうなる。
 何もない愚者。一回だけ書籍化出来た人がいた。そんな人が自身には何も無いと悲しむ。
 
 私はそれ以下である。その悲しみは同程度か? 個人差は誰にも測れない。
 今の職場では無能である。恐らく他の場所でも変わらないだろう。仕事の有り様は自身が生み出す付加価値による、利益(ROIや営業利益率だけではない、組織内のモチベーションや小さな効率化も含まれる)の拡大だけが私達の共有すべき目標である。その中で、大多数の人間が考えられることと私は乖離している。
 気を付けていても一つの見落としで台無し。私の頭はそこから離れていく。利益、価値を生み出すことはほとんどなく、ただ軽視され留飲を下げる為の何かでしかない。
 繰り返してしまうから、他の人と同じ見落としでもそれらは大きく反感を買う。いつもいつも、どうしてそうなるのか。一つ一つ順番に処理をしようとしても、そこに割り込みが入り、どれも手が付かなくなる。
 不思議ですね。私はこの価値と利益と成長の只中に溺れかけている。
 少ないながらも様々な人を見て来たが、沢山の人と知り合いになり、様々な発案が実現出来るような人は一つ飛び抜けている。
 結局のところそうした人間が、価値あることを実現できる。
 決して、私のような地下室でこのような文章を書いている人間ではない。
 この社会で価値を生み出せない人間は、ただ働かねばならない。目の輝きはただ若さと未来への希望が多大に含まれていたから。そこから若さが引かれてしまえば、次に目にするのは未来の手前の死。希望はその死の煙によってかき消されてしまう。
 私は音楽や小説といった所で、少ないながらも誰かに価値あるものを生み出したかった。プロでなくとも、価値のない私が出来る唯一の表現だと考えていたからだ。
 そうして死の煙の中にかき消されつつある。私は仕事で頭が回らなくなり、何も考える余裕がない。ただ、ゲームをして、それを世界に垂れ流し、楽器をちょっと弾いてみるくらいしかない。
 
 死ぬまでの暇つぶし。太陽はさっさと私を焼き尽くしてくれないか。
 
 圧倒的残業は圧倒的成長!
 と聞いたのは二年前だったろうか。
 
 私はもう十年近い日数を仕事に費やしたが、具体例を挙げて、自分の言葉でスキルを定義できない。成長を具体的に表現できないのだ。
 成長、私の肉体は既に成長の坂でなく老化の坂を下っている。若者でない人間はじわじわと能力のなさで追い詰められていく。いいトシして、こんなことも出来ない、これだけは出来る。しかし求められるのは幅広い人間とやり取りを進め、成果を出す、利益を出す、物を作り上げる、何度も利用されるサービスを生み出す、他者への価値を生み出す。お前に付加できるものは何なのだ、それを問われ続け、私は何もないことをずっとささくれのように抱えていた。皮だけ裂けていたものが、その先の肉を裂き、その体を引き裂く。
 私は自分の言葉で自分をビジネスの領域で表現できない。
 ただ、ただ。私が表現できるのはこうした延々と繰り返される再帰的な散文でしかないのだ。小説を書こうと試みていたが、それらは他者への価値を生み出すことはない。自分の内奥にしかない表現をする以外に出来ることはない。
 
  ああ、こいつは駄目だ。という素直な態度に私は押し潰された。

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 私の中に打ち込まれた死を望む意志は消えることはなく、人生の最後までついて回るだろう。死してこのブログが更新されなくなった時、これらは私の遺書となる。他人のせいなどでは決してない。私はこの先確実に社会に押し付けられた死を選ぶだろうが、それらは社会に殺されたと言ったところで誰の責任にもならない。この世界が滅ばない、人類が滅亡しないのだから、私が先に終わらせるしかあるまい。

 

 長い間夢を見ていなかった。または夢を見た端から忘れてしまったのだろう。昨日は久しぶりに夢を見た。


 私は何者かに殺されることになった。椅子が立ち並び、大勢の人がいた気がした。私は襲われた。拳銃だったろうか、殺しを肯定する理由は何もない。
 私は倒れ、それを突き付けられ、
「ね、死のう」
 それだけ言っていた。
 そこに宥めすかす女が現れる。頼むからこの場では、私が何かを言い、その場は殺されることはなかった。
 そうして無事帰路につき、眠りにつく。
 しばらくして、目の前が小さな光で照らされ、私は胸の中心を刃物が貫くのを感じた。
「アレで終わるわけないよ」
 私の体から熱が消えていく。硬直する。

 夢の一幕。脈絡はなく、ただただ死を望む意識がそこに現れた。
 私は遂に殺された。そんなに望むならと、記憶整理の途上で私はされた。それは絶対に殺すという意識を持って私の中に入り込むことに成功した。

 それもまた女の姿をとっていたように思うが、それは何故だろうか
 点のように残された女性性が私を殺しにやってきた。人生を終わらせてくれるなら何よりだ。この社会で定義された人間になれなかったのだから、それは極々当たり前だ。

 私は誰にも助けてと言えないだろう。

 助けて、それは一体何から?

 人生の不安から?

 人間であることの懐疑から?

 ここにある感情は人間を殺せ、世界を破壊しろ、それは自我の破壊、自己の抹殺で実現可能だと言い、それを助けてだなんて誰が認識するだろうか?

 誰が私の善性を担保するというのだ。

 誰が私の社会的価値を担保するのか。

 それは自分自身である。

 私は単に社会性がなく、ギリギリ会社のルールで生かされている労働者である。社会に出たことがないから死のうと。

 それは素敵なことですよね。生きているのだから、死のうと思う。前頭葉が壊れていくのを感じている。叫ぶ、体を打ち付ける。この肉体から社会性を失ったものが顔を覗かせている。そいつは私を殺そうとしているのだ。

 どうにかして抗わなければ。どうにかして生きなければならない。

 死を望む精神それそのものは自らを消してしまいたいが、それは生きたいと思うからなのだ。生きたいのだから、死を望む。消えてしまいたい、頼むから殺してくれ。

 これらは全て今の生きている状態が嫌なだけであって、別の状態におくことが出来ればそうならない。それを分かって、私はまだここで生かされ続けている。他の人間達はそんなことを一瞬たりとも考えたことはないか、そんな些末時に関わる暇がない。

 私は社会の些末時である。

 そこから這い出たものが価値を生み出すことはなく、

 ただぬめりだけを残す。

 

 今日も殺してくれるよう、私は望む。

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 前を向く。それだけで落ち込む気持ちはある程度抑えられる。しかし、俯いて進む地面はベルトコンベアのようなものである。勝手に動いて、勝手に仕事を始める。それが仕事なのかもわからず、ただ働かなければならない。働くこと以外は致命傷である。そこから離れた時、私たちは餓死する。私は自身が無能であるという俯いた世界から逃れられない。太陽が体を焼くから、熱に堪えかねて頭を垂れる。そのまま切り落としてくれよと願い、それは望まない時に落とされる。焼け死ぬか、首が飛ぶか、そのどちらも私の死である。俯いた世界からおはようございます。そこはどんな所でしょうか。なに、つまらない場所だよ。こちら側で生きるのに疲れたのです、どうしたら。駄目だ、そちらにいなさい。そんなやり取りが朝行われた。昼にもまた、似たような話が出る。ではどちらも合わないと言うのですか。いや、どちらかを選べない。……。どこにも居られないということでしょうか。それそのものが勘違いだ。それでは、丸まって俯いて前へ進むしかないのですね。それもまた決められたことだ。それだから俯いた世界観で反芻する。求めていたものはなかった。確固たる世界と呼べるものは何もない。水と油のように分離されていない。浸透圧に抵抗する。体を守るので尿素が体にある。

 人生は加速度的に変化する倍率である。9.80665倍されていく。地球の人生と金星の人生と火星の人生とエウロパの人生と、それら様々な加速で人生は変化する。

 早くしてくれ。不意に浴槽で転び腰を打つ。私はその惨めな自身を殺せと一頻り叫んだ後、それすらも虚しいことに気づき黙る。太陽はまだ私を焼かない。

 なんで今日まで生きてたんだ?

 単純な奇跡である。どうして走っているのと訊かれても、私のようなものにはそう答えるより他ない。意味や価値や目的はつまるところ自己撞着である。なんで生きて来たのか、どうして生きるのか、挿入される合理性と経済理論。個人の活動や嗜好の情報が様々もので収集され、その中で最適化された広告、コンテンツ、それ自身が個人を規定し始める。経済活動を助長するように、回せ回せ回せと情報が私達を動かす。個人の行動を知ること、サービスを受けるからと取るに足らない情報を与える。そうしたものが少なからず私達の価値、目的に生え揃い、その中で生きているような感じを抱くからそうしたものになるのだ。

 私は中央アフリカで生まれていれば混ぜ物の麻薬で腐っていっただろう私はアメリカで生まれていれば頭を撃ち抜いていただろう。

 私はただ社会に引っかかっただけの人生だ。

 経験はなく、頭でっかちに再現される世界。私は真に迫れない。頭はもう益体なしだ。消えるために生きているのだから、いつ終わらせてくれるのだろうか。死ぬには勢いと度胸がいる。結婚と似ている。子供がいる。その時私の人生は終わったのだ。次へ紡ぐことが人間を満足に至らせ、そして消えゆく。しかし私の人生はそれがないままに終わったのだ。だから気が狂うより他なく、命を経つことも出来ずにこんな場所で喚くしかない。

 様々なものから距離を取った。その自我のよりぬきの後、世界観の薄膜は更に薄く引き伸ばされる。私を包もうとしたが、包み切れない。そうやって膜の外側へ落ち込んだ先に世界はあるのだが、それは他人との重ね合わせがないが故に世界観が観測されなくなって現れるものだ。自己と世界が同一化される。それらは私達が解しようとしている世界ではない。私だけが理解している世界は畢竟宗教的な世界観を生む。そうして自己だけの中に逃げ込んで、社会を破壊する。

 その人間たちの中で生きる癖に人間らしさがない。どこか異質なものがある。それは小さな癖や言動や感情やそう生活の中でわずかに生じる差、これが反復し自励を始めそれが明確な好みや差別へと発展する。「キモい」という言葉が溢れているが、そうした単一の簡単な言葉で人を区切るのはそこに非人間化プロセスが含まれるからだ。これは人間ではないから、傷付けてもいい。なんなら対話すらもコレらの攻撃なのだから、やり返していい。殺してしまってもいい。

 そこまで苛烈ではないが、区切るという行為は自然と行われる。

 その中で、私は楽しく、愉快に生きている。区切られ、見下され、被害妄想が吐出し、物事の表層をなぞる。そう言っていなかったから、何もないから気にするようなことじゃない。HSPなどと喚いた所で、それが救いのように、免罪符のように定義されたところで、それが特別な配慮に変わることはない。私達は個人を尊重しつつ、合理性の檻の中で回らなければならない。辛さが押し付けられるから、誰もかれもが反発する。それを少しでも和らげる形に持っていけたら良いのだが。

 人間の曖昧さを明らかにし、何か明確なものとして社会に提示する行為は良いことなのだろうか。極端なものへ走るのは、都合の良い分かりやすさで動くのは、個人としても社会としても動かしやすく非常に楽な選択なのだろうが、おそらく一人一人が分かりやすさのウソと幻を判断できるようになっておかなければいけない様に思う。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火